さすらいのレコード・コレクター:男のバカバカしくて痛快な生きザマ

 

先日、レコード屋さんの仕事をやったこともあり、

たまたま近所の映画館でかかっていたので観に行った。

1時間強のドキュメンタリー映画。

 

ジョー・ハザードはクレイジーなレコードマニア。

先入観念で、いわゆるジャズマニアなのかと思ってたら、

それ以前のルーツ音楽――ブルース、カントリー、

ブルーグラスなどのレコードのコレクターなのだ。

 

製作年が2003年で、この頃、ジョーは見た感じ、

70歳前後。

今も存命中だとすれば、もう80代後半。

僕の父とそう変わらない齢だ。

ということは昭和ひとけた。

1930年代の生まれらしい。

 

彼が愛する音楽は、その自分が生まれる前と生まれた頃の

1920年代~30年代、今から1世紀近く前の、

主に黒人音楽だ。

 

音楽ソフトはもちろんアナログレコード。

それも78回転のSP盤。

僕もこんなの資料館みたいなところでしか見たことがない。

ハードは蓄音機である。

 

で、このおっさんはオンボロのアメ車を乗り回して、

要らないレコードをはるばる遠くまで出張買取に出かける。

今でいう中古レコード屋みたいなことを

1960年代頃からやっている。

 

すでにこの頃からSP盤や蓄音機は過去の遺物で、

売りたい人たちは、テレビを買うお金の足しにするために、

モノ好きなレコードコレクターに二束三文で

大量のレコードを売っていた。

取引額は$でなく、¢の世界。

10セントとか20セントだ。

 

そんなわけでジョーは、

長年溜めこんだ2万5千枚のレコードが棚に並ぶ

音楽のお城で、いつも葉巻を吹かしながら、

リズムに乗せて、5歳児みたいに

足をバタバタ鳴らし、

あげくに私設ラジオ局まで作って、

お気に入りの曲を放送する。

とんでもなお大人子どもだ。

 

当時の若者音楽であるロックが大嫌いで、

娘が親への反抗の意味もあって買ってきた

ビートルズのレコードも捨ててしまったと言う。

 

この映画は、そんなおっさんのクレイジーぶりを描くのだが、

なぜ彼がブルーグラスなどの音楽にそこまでハマったのか、

仕事は何をしている(してきた)人なのか、

音楽を聴く以外にどんな暮らしを送っているのかということなど

一切描かれない。

 

家族も、成人して中年に近くなった娘が

「こんなお父さんだった」ということをコメントするために

2,3ヵ所、短く登場するだけだ。

 

カメラは、ただひたすら楽しそうに音楽を聴き、

車に乗ってレコードを買い集めるジョーを追うだけで、

特にこれといったドラマも起こらない。

 

ジョー自身も特にこれといった

音楽に対する主義主張や評論家じみた批評や

マニア然としたうんちくをぶつわけじゃなく、

ひたすら「これがいい」「あれが最高」と言うだけ。

 

ちなみに彼はロック以前にジャズさえもいい作品は

戦前のもので、大恐慌・2次大戦以降の音楽は

とても聴けないと言う。

まさしく古き良きアメリカンフォークの偏愛者と呼ぶしかない。

 

結果的に、彼は100年後の現在のポップミュージックに繋がる

アメリカ音楽の歴史の貴重な生き証人であり、

この映画にはそういう価値があるのだが、

ジョーにとってはそんなこと、どうでもいいのだろう。

 

何も人間を深く描き、

ドラマチックで感動的な出来事を伝えるだけが

ドキュメンタリーではない。

 

「俺には生涯熱中できるものがある。

傍から見たら単なるバカに見えるかもしれないけど、

楽しい音楽を聴いてりゃ、そんなことどうでもいいんだ」

 

そんなジョーの声は聞こえてきそうだ。

 

人の役に立つわけでなく、社会に貢献するわけでもない。

感動的でもなければ、深い意味があるわけでもない。

しかし、彼の音楽に対する偏愛ぶりは痛快で、

どこか胸を打つものがある。

 

これもまた立派な男の生きザマである。

 


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ガンで死ななきゃカネが入らん

 

知らなかった!

ガンを患っていた人が死んでも、

その死因がガンだとは限らない。

 

限らないどころか、その確率はせいぜい4割。

つまり、ガンで亡くなったと思っても、

半数以上の人の直接の死因は、

肺炎だとか心不全といった

他の病気になってしまうのだ。

 

それで何が問題になるかと言うと「保険」。

ガン保険は、死亡診断書に「ガンが死因」と

書かれないと、保険金が下りないらしい。

 

いや、とんだ落とし穴があるもんだ。

 

他にも「四大疾病ナントカ」とか、

的を絞った保険がいろいろあるけど、

すでに入っている人、

これから入ろうと考えている人は、

説明書きをよく読んで、

くどいほどその会社に訊きまくって、

よーく考えてから入ったほうがいいと思います。

 

くれぐれも「せっかくガン保険に入ったんだから、

ガンにならなきゃ損だ」と考えたり、

医者に「センセイ、お願いですから死因は

ガンと書いてください」

と、頼みこんだりしないように。

 

ちなみに、長崎で小さな葬儀屋さんをやっている

このチヨさんのブログは面白い。

日々死者と向き合っている彼女は、

さまざまな現実を目にしている。

 

彼女の前歴はCA。かつての呼び名ならスチュワーデス。

かの1985年の日航ジャンボ墜落事故で、

遺族対応をされれていた人だ。

 

そんなキャリアも影響してか、

彼女の死を巡る状況を見つめる目は鋭く、ユニーク。

そして人間への愛とユーモアが溢れている。

 


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年寄りには薬を飲ますな、こき使え

 

84歳の義母と暮らし始めて、間もなく5カ月になる。

すぐ近くが巨大な公園なので、

家にいる時はほぼ毎日つれ出すのだが、

最初は10分も歩くとへばっていた。

 

しかし連日連れ回しているうちに、

どんどん足腰がシャキッとしてきて、

今では途中休憩を入れれば、

1時間から1時間半くらいは平気で歩ける。

 

駅近くのスーパーまで15分程度の道のりも

最初の頃こそバスを使っていたが、

今では平気で買い物して往復できる。

帰りなんて、荷物まで持ってくれる。

 

カミさんは鍼灸院をやっていた時、

「年寄りは甘やかすと駄目になる」という話を聞いて、

家事などを手伝わせている。

 

家事と言っても、火や刃物を使うなど、

危険なことはさせられないので、

もっぱら洗い物と掃除だ。

特に雑巾がけは運動になっていいらしい。

 

おかげで義母はどんどん元気になる。

認知症で介護レベル3だが、

それ以外は健康園ものだ。

 

もう一つ、ポイントは薬。

以前は4種類飲んでいたが、

アルツハイマーの薬以外――血圧や動脈硬化症の薬などは

みんなやめてしまった。

やめてからすこぶる調子がいい。

 

日本の年寄りで病気っぽい人が多いのは、

薬の飲み過ぎ――という説もある。

 

年寄りに限らず、中年以上の人も、

薬をたくさん飲んでいる人は、

本当に必要なものを、必要な分量だけ飲んでいるのか、

一度、見のしてみた方がいいと思う。

 

不健康だから薬を飲むのか?

薬を飲むから不健康になるのか?

よーく考えてみよう。

 


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酒・タバコ、やめて100まで生きたバカ:2019シガーバー&愛煙家通信編

 

★JOKERはチェーンスモーカー

先日、「JOKER」について書いたが、

あの映画の舞台・ゴッサムシティは

明らかに1970年代のニューヨークをモデルにしている。

 

世界一繁栄を誇る、と同時に、

世界一荒廃したこの都市の

底辺生活者の代表でもある、

主人公アーサー、のちのJOKERは、

ひっきりなしにタバコを吸い続ける

チェーンスモーカーだ。

 

アメリカで猛烈な禁煙運動が起こるのは、

その後、80年代に入り、

レーガノミクスという経済政策

(アベノミクスのお手本)が始まってから。

 

1970年代までの喫煙習慣は、

世界中の近代国家で、

明らかに一つの屹立した文化を形作っていた。

昭和までの日本も、もちろんその例外ではない。

 

僕より上の年代の人たちの中には、

ごくまともでも、

アーサーみたいなチェーンスモーカーが

今でも大勢いるのではないかと思われる。

 

★2020世界の模範都市・東京のシガーバー

20世紀、近代国家が成長する過程で

創り上げられた、一つの喫煙文化は、

今、絶滅の危機に瀕している。

 

2020に向けて世界の模範都市になるために、

東京都はますます喫煙に厳しくなった。

弱小の飲食店にも圧力がかけられ、

2020年4月1日から従業員を雇っている店は原則禁煙となる。

都内の少なくとも約84%の店が禁煙になる見込みだと言う。

 

僕の友人がやっている神楽坂の店は、

1950~70年代の雰囲気を売りにしていて、

常連客の大半はスモーカー。

そしてご年輩の人も多い。

 

現在、昼間カフェ、夜はバーだが、

来年4月からは「シガーバー」として営業するようだ。

そうでなければ営業できなくなるのである。

 

完全分煙のために店を改装する費用が出せないのが理由だが、

もはや店内にはタバコの匂いが深く染み付いてしまっているので、

建て替えでもしなければ、煙草嫌いは寄ってこないだろうと言う。

 

「シガーバーも受動喫煙防止法の対象で禁煙になりますか?」

なんて笑い話みたいな質問がウェブ上に載ってたりして、

これはこれで混乱が起こりそうな気がする。

 

★愛煙家通信

 

“あるホテルのシガーバーで、おばさんに「タバコやめてくれませんか」と言われて大喧嘩になったことがある”

 

そう語るのは作家の北方謙三氏だ。

 

これは「愛煙家通信」というウェブサイトに載せられた

北方氏の投稿文の一部。、

 

この文章がめっぽう面白く、こんな一節もある。

 

“男というのはね、女が価値を認めないようなものを

大事にするものなんですよ。

煙になって消えて行くようなものの価値なんて、女にはわかりませんよ。

男なんて人生そのものが煙みたいなものだから、自分と重ね合わせて、

そういう消えて行くものの価値を大切にする。

ほとんどの女は絶対、煙になって消えようなんて思ってないですからね”

 

さすがハードボイルド作家。

人生における喫煙の意味、そして女には理解困難な、

喫煙に対する男の心情を見事に言い表した

含蓄のある言葉である。

 

こじつけ?

そう、タフガイらしい、そのこじつけ力が素晴らしい。

 

この「愛煙家通信」の投稿コーナーは、

「禁煙ファシズムにもの申す」と題され、

さまざまな著名人の意見やエッセイが載っている。

 

ちなみに杉浦日向子氏や上坂冬子氏など、

女性作家や学者なども寄稿している。

 

「たばこはわたしの6本目の指」なんて、

そそられるタイトルで書いているのは女優の淡路恵子氏。

こんな色っぽいことを囁かれたら、

夜のブラックホールに吸い込まれそうだ。

 

好き嫌い、良い悪いはともかく、

なぜ、20世紀の近代国家の成長段階で、

あれほど喫煙が持てはやされ、

一つの文化を7築いたのか、

歴史を知る意味でも

「愛煙家通信」は一読の価値があると思う。

 

★かつては愛煙家、じつは今も

僕はかれこれ20年近く前に25年間の喫煙習慣を捨てた人間だ。

心情的には喫煙者・禁煙者、双方の間を、

コウモリみたいに、どっちつかずで行ったり来たりしている。

 

だから性懲りもなく、毎年思いついたように

この「酒、タバコ、やめて100まで生きたバカ」という

シリーズを書き続けている。

 

それはやっぱり体はタバコを受け付けなくなったが、

心のどこかで、過去の自分を含め、

タバコを吸っていた人たちを愛していたいからだと思う。

早い話、ノスタルジーや思い出の世界。

変わりゆく世界への抵抗、なのかもしれない。

 

時々、あのまま吸い続けていたら、

今ごろどうなっていたか?と考える時もある。

 

もしかしたら今と変わらず元気でいるかもしれなし、

重大な健康障害に陥っていたかも知れない。

中年以降の人生は今とは違ったものになっていたかもしれない。

 

そんなこと、誰にもわからない。

自分にもわからない。

ただ、やめてしまったからこそ、

一つの世界、一つの文化として

却って興味をそそられる部分がある。

 

酒もタバコも人間の愚かしい習慣だと思う。

でも、その愚かしいストーリーがある世界から

たぶん一生離れられない。

  


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インタビュー術「あなたの健康の秘訣は?」

 

インタビューをする人は、

相手にこの質問を投げてみるといいと思います。

 

仕事柄、インタビュー取材が多いのですが、

ビジネス関係だと、通常は仕事の話、商品の話、

サービスの話ばかりになります。

当たり前だけど。

 

それだけで面白く、興味を持てる記事になる場合も、

もちろんありますが、

それだけだとどうも味が薄いなと思うことの方が多いのです。

 

“会社を代表して”応じる社員の方は、

選ばれて出てくるだけあって優等生がメイン。

なので、受け答えも無難な模範解答になりがちです。

 

今時のインタビュー記事に求められるのは、

実はその話している人の人柄です。

どんな人がその仕事について、商品について、サービスについて

語っているのかが結構重要。

読者はその人となりを読み取ろうとします。

 

もちろん仕事の話のインタビューで、

それがメインになることはあり得ませんが、

この「人間味」という隠し味が効いているのと、いないのとでは

かなり出来上がりの文章のクオリティが違ってきます。

 

ただし通常のクライアントさんは、

あんまりそんなの気にしません。

 

それどころか、余計なこと訊いてくれるなという場合が多く、

間に入っているメディアや広告代理店の担当者は、

かなりドキドキハラハラするようです。

でも僕は時間とチャンスがあればやってしまいます。

 

ただし、プライベートなことに関わってくるので、

「あなたの趣味は?」みたいな質問は良くありません。

 

親しい友人同士の間がらならともかく、

初対面のインタビュアー、ライターに

こういうことを訊かれたら、

ほとんどの人は反射的に身構えます。

 

べつにやましいこと、恥ずかしいことをやっているわけじゃなくても、

趣味について語ることは、イコール、人間味をさらけ出すこと。

脳の防御本能が働いてしまう人が大半で、

適当な、当たり障りのない答で逃げられてしまいます。

 

そこで便利なのがこの「健康の秘訣」というキラークエッション。

一通り要件を訊き終わった後で、

「お元気そうですが、○○さんの健康の秘訣は何ですか?」

と訊いてみる。

 

これだけストレスという概念が普及した世の中で

仕事をしていて何のストレスも感じてないと言う人は

ほぼ皆無と言っていいでしょう。

 

なので質問自体は自然だし、

相手も安心して答えてくれる人、

割とノッて答えてくれる人が多い。

 

そして、その答はたいていスポーツとか、

音楽がやる・聴くとか、趣味の分野と繋がってきます。

すると抵抗なく、趣味や生活習慣、家族などの話に広がっていく。

 

大病や手術をしたなんて、

ちょっとシリアスな話になる場合もありますが、

そういう告白をする人に対しては、

ちゃんと聞いてあげると、むしろたいへん満足します。

 

中には「仕事が楽しくてストレスなんてたまらない」とか、

「健康のケの字も考えてない」とか、

「俺の健康の秘訣はタバコをバカバカ吸うことだよ」

なんて返してくる豪傑もいますが、

それはそれで「じゃ、仕事の時以外では

どんなところで活躍しているんですか?」とか、

「じゃ、タバコとかお酒とか詳しいんじゃないですか」とか、

いろいろ展開でき、相手もたいがいそうした話題には

気分を良くしてくれます。

 

もちろん、このへんの話を全部記事にできるわけではないけど、

相手の人柄がにじみ出してきて、とても面白いです。

 

機会があればぜひ試してみてください。

 


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ネコとロンリーハートと正義のロンリー

 

最近、うちの近所はネコ通りが少ない。

イヌ通りはワンさかあるのだが、

ネコはいったいどこにいるんニャ?

と思ってたら、今日は雨上がりの

公園の散歩道で遭遇。

 

木の上の獲物か何かをにらんで

野性味たっぷり。

と思いきや、おニャカがポヨヨン、

タポタポ状態。

 

赤ちゃんをはらんでいるのか、

それともメタボなのか。

いずれにしてもお腹が重そうで、

ついに木の上には跳び上がれずじまいだった。

 

頻繁にエサを上げに来る人がいるらしく、

むかしこの辺にいたネコは糖尿病になって

死んでしまったらしい。

 

もちろん、エサをあげるのはよくないこと、

人の迷惑にもなるし、

結果的にネコを不幸にするのかも知れない。

 

けど、ネコに癒しを求める

ひとり暮らしのお年寄りとかに、

そういう正義の味方の論理が通じるのか、と思う。

 

ひとり暮らしの年寄りでなくても、

寂しい心を抱えた人は増えている。

そんな現代人を救うのに

ネコほど適した動物はいない。

 

人とネコとの関係は、割とDEEPに考えるべき問題だ。

 


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子どもの中にどんな花を咲かせる種が眠っているのか、誰も知らない

 

●無職・プータローという未来

子どもが自分たちの未来を見つけに行く物語を書こうと思っている。

子どもはどうやって自分の未来を見つけるのだろう? 

 

ここでいう未来とはおもに職業ということになるのだろう。

だとすれば「無職」「プータロー」という未来だって

あり得るのではないか。

今の時代はそれでもOKなのではないか。

それに代わる生きる理由があるのなら。

 

前の時代だったら許されないことだったと思うが、

今は許される。

職業=プロ=お金を稼ぐ、だとすれば。

 

●大人の期待に応えるストーリーにはもうアキアキ

不登校、引きこもりの子どもは無意識のうちに

「無職」という自分の未来に気付き、

それを選び取っている可能性もある。

 

そんな子どもたちが何かのきっかけで仕事を見つけ、

職業に就く。

めでたし、めでたし――

というストーリーがテレビなどで紹介されることがあるが、

視聴者の大人としてはそうなってほしい、

そういうオチがついていてほしいと期待して見ているから、

製作者もその期待に応えるように作るのだ。

 

でも何か違うような気がする。

学校でだって「将来の夢」に

無職だのプータローだのって書けないから、

そんな子はいないように思えるが、

それはみんな親とか先生とか、

大人の顔色を窺ったり、

慮ってそう言っているような気もする。

 

●子どもの中から未知のエナジーが湧き出ている

現代は親が未来=職業を指し示すパターンが

多いのかも知れない。

しかし、親が子供の未来を決めてしまうのはよくない。

 

昔の身分制社会だったら、

それは当たり前だったのだろうが、

今のような自由社会はそうではない。

 

自由な環境に置かれると人間の中には、

それまでの時代と全く違ったものが

湧き出てくるのではないかと思う。

 

公に差別のあった身分制社会では、

財力も何らかのステータスもない民衆はきつい枠――

たとえとしては不適切かもしれないが、

イヌをつなぐリードとかハーネス、

首輪みたいなものを付けられて、

勝手なふるまいを抑えられていた。

 

今はそれらが解けて放牧状態だ。

僕らの時代でさえも、

「役者になる、歌手なる、漫画家になる」

なんて言おうものなら、

大半の親はだ大反対したと思う。

だが今はそんな頑なに

昔ながらの伝統を守っているような親は少なくなった。

 

基本的に放牧なのに、

親や大人に未来を決められてしまうのは、

自分だけが鎖に繋がれているような思いに

駆られてしまうのではないか? 

 

今、子どもや若者の中からは、

従来の人類にはなかった、何か未知のエナジーのようなものが

内側から湧き出ているのではないかと感じることがある。

 

●人間とは何か?自分とは何か?

ひとりの人間の中に、どんな花を咲かせ、

どんな実を実らせる種が眠っているのかは、

親も誰も知らない。

そして、その本人にさえ分かっていない。

 

揶揄されることの多い「自分探し」だが、

これからは誰もが、何歳からでも、

自分探しをしなくてはならない時代になる。

僕もあなたも日々、そのヒントを探し回っていると思う。

 

もう豊かさを追求する時代は終わった。

人間とは何か?

自分とは何か?

自分という人間は何をするために、

ここにいるのか?

誰もlがそれを追究せざるを得ない時代になった。

 

 

 


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オス犬は令和の時代も片足を上げてオシッコをするのか?

 

今日、久しぶりに片足を上げて

電柱におしっこしている犬を見た。

何か心を打たれるものがあった。

なぜ心打たれたのか?

 

おお、ここにまだオスがいる。

ああ、ここにまだ昭和が残っている。

そう思ったからだ。

 

片足を上げておしっこするのは、

オス犬の所業である。

彼らはオシッコの匂いによって

「われ、ここにあり」と、

自分の存在の証を立てる。

 

それを近所の仲間らに知らしめるわけだ。

「ああ、今日ここを山田さんちの

ごっつい秋田犬のケンさんが訪れたのだ。

ケンさんは強くてかっこいいからな」と、

近所の仲間らは認識し、

ケンさんのところからなるべく離れたところで

「ここなら怒られないかな」と、

シャーっとするわけだ。

 

・・・というのはもはや昭和時代の話なのではないか?

いま、果たしてオス犬たちの間で

街中でこうした仁義を切る習慣は残っているのだろうか?

 

以前は飼犬の多くは番犬、もしくは猟犬の役割を担っていた。

なので野性の本能が残っており、

ゆえにおしっこマーキングの習慣も

当たり前のように続けられていたわけだ。

 

しかし時代は流れ、少なくとも街中にいる犬は、

ほとんどが愛玩犬になり、家の中で人間と一緒に

暮らすようになった。

 

よその犬と争うこともなく、

飼い主さんの言うことを聞いていれば

平和に穏やかに腹を減らせることもないオス犬が

片足を上げておしっこするのだろうか?

 

街中でそんなことをしたら、、

下品な犬、しつけがなってない犬と見られて、、

飼い主が恥ずかしい思いをするので、

子犬の頃からきちんとしつけられ、

おしっこも管理されるのではないだろうか?

 

そう言えば昔ロンドンで暮らしていた頃、

公園などを犬が散歩しているのをよく見たが、

片足上げておしっこしている犬は見たことなかった。

 

そもそも今の生活環境で、

わざわざマーキングして自分の存在を他の奴らに

誇示しなくてはいけない必然性などないように思える。

 

また、老犬になり、自分の体力の衰えを感じても

オスは頑張って片足おしっこするのだろうか?

 

さらにまた、イヌの仲間であるキツネやタヌキ、

先祖と言われるオオカミなども、

オスは片足上げておしっこして存在を誇示するのだろうか?

 

いろいろ疑問が広がるオス犬のおしっこ。

現在の新常識はどうなっているのk?

イヌの飼い主さんがいたら教えて下さい。

 


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なぜ人はJOKERに魅了されるのか?

 

●JOKER誕生の物語?

これは、バットマンのライバルとなる

あの究極の愉快犯「Joker」が

どのように生まれたのか?

 

ひとりの平凡な男が、

なぜ稀代の大悪党になったのか?

 

それを解き明かす物語だと思っていた。

 

観たいなと思った映画は、

いつもなるべく事前に情報を入れないようにしているけど、

どうしてもチラホラと小耳に挟んでしまう。

 

だから、子どもの頃、

親に虐待されたトラウマがどうだとか、

 

分断された格差社会の犠牲者だとか、

 

自分を貶めた偽善者たちへの復讐だとか、

 

いろんな悲劇の上に、

あの残虐な笑いを湛えたサイコパスが生まれた

――という説明がなされるのだと思っていた。

 

それをすごいクオリティでやってのけたから、

ハリウッド製のメジャーな映画は賞が獲れないとされる

ヴェネチア国際映画祭で最高賞を獲ったのだろう。

そう思ってた。

 

そうした先入観はぶち破られた。

 

●原因と結果はそう簡単に結びつかない

悲劇であることは間違いないのだ。

 

ジョーカーになってしまう主人公アーサーの

家庭環境は酷すぎる。

父親も母親もめちゃくちゃだ。

 

それが原因となって、

彼は精神障害を抱えて生きざるを得ない。

 

あのジョーカーキャラの最大の特徴となっている、

誤ってキノコのワライタケを食べてしまったような、

マッドで素っ頓狂な笑いは、その症状であり、

重い十字架になって、差別や誤解のもとになっている。

 

そして当然のように極貧の生活を送り、

社会の底辺から這い上がれない。

それでも彼は年老いた母親のために尽くす良い息子なのだ。

 

そんな彼を社会は蔑み、嗤い、潰そうとする。

その中にはバットマンも含まれている。

 

そりゃ可哀そうだ。

そりゃ恨んだり憎んだりもするわな。

そりゃ悪党・犯罪者になってしまってもしかたない。

 

・・・というふうに、

主人公に同情し、部分的に共感し、理解を示し、

この物語を解釈してしまうことも可能だ。

 

でもそんなにクリアに「わかった、理解した」とは

とても言えない。

そう言ってしまうと、とてもつまらない。

何か違う。

原因と結果がそう簡単に結びつくわけではないのだ。

 

●道化の仕事

主人公のアーサーには一つだけ希望の灯がある。

それは仕事だ。

道化の仕事。

もちろん底辺の仕事だが、

少なくともそれは奴隷労働ではない。

 

彼はいやいやそれをやっているわけではない。

人を笑わせることが好きなのだ。

それで自分もハッピーになれると信じている。

生きがいなのだ。

 

そしてそれは彼の夢である

スターコメディアンの道に繋がっている。

 

ロジカルに説明するなら、

アクシデントによってその仕事を失った時から、

彼が自分の中に潜む悪魔に気付き、

Jokerへの変貌が始まる。

 

けれどもやっぱりそう単純ではない。

 

●現実か妄想か

1970年代の最も治安が悪かった頃のNYC。

その負の部分を凝縮したかのような

ゴッサムシティを舞台にした

このドラマの中にはもっと不条理な何かが渦巻いている。

 

そこには機械化による人間性の喪失を描いた初めての映画、

チャップリンの「モダンタイムス」や、

主人公が破滅していく「タクシードライバー」や

「カッコーの巣の上で」などの

1970年代のアメリカンニューシネマの

オマージュも溶け込んでいる。

 

途中挟まれる、

隣人の女への愛が成就したかのようなシーン。

少し後にそれは彼の頭の中の

妄想だったことがわかるのだが、

その他も全て――殺人をはじめ、

この中で起こるドラマチックな出来事すべてが

アーサーの妄想に過ぎなかったのではないか、

という疑惑さえ抱かせる。

 

●「笑う」という行為の奥底に広がる宇宙

これは1週間以上前に観たのだが、

いったい何をどう書いていいのか、わからなかった。

 

そろそろ書けるかなと思って書いてみたけど、

やっぱりダメだった。

 

ただただ、圧倒的なクオリティ。

娯楽映画のはずなのに、その行間にある深淵がすごい。

 

悲劇も喜劇も、悪も正義も、

愛も憎悪も哀しみも、すべてを包みこんだ「笑い」。

 

人間の「笑う」という行為の奥底に

天使と悪魔がせめぎ合う宇宙が広がっている。

 

遥か昔から数多の作家や芸術家たちが、

その宇宙の秘密をつかもうとしてきた。

この映画は漆黒の宇宙に浮かぶ

星のカケラを見せてくれる。

 

僕はフェニックスのJokerに魅了されている。

 


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ラジオドラマ脚本「ちぢむ男」完成

 

毎度のことながら、創作部の仕事は、

出来上がるとすごくうれしい。

 

「ちぢむ男」は

最初のアイデアから約1年。

 

アイデアが熟してきたら

何となくのあらすじを書く。

 

今回は5パターンくらい書いた。

 

実際の執筆は2か月程度。

たいてい初稿から半分以上は書き直す。

 

今回は最初の10枚くらいがなかなか決まらず、

かなり大胆に手術した。

 

コテコテ書き直しを繰り返した。

結果、当初考えていたのと全然ちがう話になった。

たぶん、最終稿は第7稿。

やってる間、ずっと面白かったけど、

ずっと抱えているわけにはいかない。

ので本日、コンペに投稿。

 

一昨年の「ばんめしできたよ」は

書き直しを繰り返して、しつこく3回出したが、

結局、うち2回は最終選考まで残った。

 

昨年の「星のおじいさま」は

一次予選敗退。

 

「ちぢむ男」はどこまでいくか?

 

ま、宝くじみたいなものなんで、

当分の間、夢を抱えて生きられる。

 


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認知症の義母は、オバケのQ太郎だった

 

●ばなな氏の「私のQちゃん」

オバケのQ太郎全集の2巻の最後に、

作家のよしもとばなな氏の解説が載っている。

 

彼女は大のQちゃんファンで、

藤子・F・不二雄先生が亡くなった時、

肩にQちゃんの入れ墨を入れたそうである。

 

彼女がこの解説で書いていることは、

いちいち自分にも当てはまる。

 

思えば、ラーメンという食べ物を初めて知ったのも、

オバQの小池さんに出会ったからだ。

小池さんが食べるラーメンの美味しそうなことと言ったら!

 

というわけで、マンガとともに

よしもとばなな氏の話にすっかり共感し、

より深いオバQワールドに入り込みつつある。

 

ばなな氏は、ドラえもんよりもQちゃんに肩入れしているが、

その理由は、ドラえもんが役立ちすぎるのに対して、

Qちゃんはほとんど何の役にもたたないからだと言う。

 

まさしくまさしく。

 

僕も役に立って頼りになるドラえもんより、

役立たずで全然頼りにならないQちゃんが大好きだ。

 

さらにばなな氏は、Qちゃんのキャラクターを評して、

“涙もろいし人情家ではあるけれど、わがままだしマイペースだし、

怒りっぽいし、案外なんでもすぐ割り切るし、けっこうクールなのだ”

と言う。

 

●オバQ要素てんこ盛りの認知症

これを読んで気づいたことがある。

 

義母そっくり。

 

もちろん、人によって違うだろうが、

認知症の人の多くは、こうしたちょっと

マンガチックなオバQ要素を

いくつか持っているのではないかと思う。

 

そうか、義母はオバQになったのだ。

僕は相棒の正ちゃんである。

そう考えると、一緒に過ごす日々が

楽しいし、愛おしくなる。

 

この2巻と3巻の表紙のQちゃんの表情は

本当にそっくりだ。

(ラジカセで昭和歌謡を聴いて歌うのが日課になっている)

 

第3巻ではQちゃんの家族がやってきたり、

正ちゃんを連れてオバケの国へ行ったりする。

 

●人間族はオバケ族に還る?

そこで妹のP子ちゃんがオバケの国のことを物語る。

 

「ずーっとむかし、地球にはオバケ族と人間族がいたんですって。

ところが世の中が進歩するにつれて、

ノンビリ屋のオバケは人間にかなわなくなくなったの。

 

多い詰められたオバケは、人間をおどかしたこともありました。

このころの言い伝えが、いろんなバケモノを想像させたのよ。

 

しかし、けっきょくオバケは雲の上に逃げ出しちゃったの。

オバケはうそをついたり、人をきずつけたりできなかったからよ」

 

子どもの頃は、ただ面白がって笑っていたけど、

大人になってオバQを読んで、

これほど考えさせられるとは思わなかった。

 

社会で役に立たなくなった認知症の人は、

人間の悪い部分が抜けて、

オバケみたいなところだけが残るのかも知れない。

 

オバケの国に帰る日まで良い友達でいたいと思う。

 


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認知症の義母の価値はどうやって見つけるか?

 

認知症の義母とこの4ヶ月一緒に暮らしているが、

昨日と今日はいない。

施設のショートステイに預けたのだ。

特に理由はないのだが、いわゆる「ならし」で

一度、利用してみようと思った。

 

将来的に、もし自分たちで面倒を見られなくなったら、

施設に預ける―ーその伏線でもある。

 

認知症患者専用のフロアには

魂の抜けたようなばあちゃんたちが大勢いた。

(なぜだか圧倒的に女性が多い)

比べるのは悪いが、義母は比較すると相当元気だ。

 

残していく時にはちょっと胸が痛く、

逃げるように出てきた。

 

久しぶりにカミさんと二人だったので、

新宿に行って映画を見てきた。

 

義母がいないと気楽だし、仕事もはかどるが、

ちょっと寂しい。

 

これはどういうわけだろう?

 

義母はもう社会の役には立たない人だ。

それでも一生懸命、僕らの役にたとうと

料理や掃除を手伝いたがり、洗い物や片づけを手伝う。

 

効率性を考えると、少々邪魔なこともあるが、

「手伝わなくいいよ」とは言えない。

 

役にたちたいというのは、

人間の本能の次に来るものだ。

自分の存在の証明でもある。

 

小さい子どもも役に立たないが、

子どもは「可愛さ」それ以上に「未来」という

大人にとって圧倒的にありがたいプレゼントをくれる。

 

残念ながら、老人にはそれがない。

子どものようになってしまっても、子どもではなく、

子どもと同じ価値もない。

 

ほとんど役に立たず、わがまま、マイペース。

おまけに認知症だとトンチンカン。

明日迎えに行ったとき、

はたして僕やカミさんのことを憶えているかも怪しい。

しかし、言葉にできないが、価値はあるのだ。

 

彼女といかに楽しく暮らし、

そのまたとない価値を見出せるかが、

僕の生きるテーマとなりつつある。

 


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葬儀屋さんの黒にんにく

 

黒にんにくって初めて食べたけど、うまい!

これは隠し味的調味料として最高です。

チャーハン、野菜炒め、トマトスープ、ミートソースなどに

入れてみたが、いずれもGood。

甘みと酸味と、ちょっと苦味があって、料理にコクが出る。

 

黒にんにくは、生のにんにくを高温高湿の環境で

2~3週間、熟成発酵させて作る。

アミノ酸が凝縮され、老化の原因となる活性酸素を

除去する力があると言う。

 

実はこの黒にんにくを作っているのは葬儀屋さん。

先週、取材に行った山梨の葬儀社「コーリング」では、

後継者不足で休耕地になった畑で

黒ニンニクのもとになる

ジャンボにんにくを生産している。

 

このニンニクをしたら商品化したら大いに当たって、

「じゃん丸くん」としてブランド化。

地域の名産品になり、

ファーム事業部も社内に設けた。

 

葬儀社のファーム事業部って、

ちょっと妙な感じもするが、

真っ当なビジネスになるのであればOK。

地域貢献にもなるし、

ニンニク商売が媒体となって

本業にも良い影響を及ぼしていると言う。

葬儀屋だから、農家だからと専門にこだわらす、

チャンスが出来れば、いろんな分野の仕事を

柔らかくやっていけるといい。

 


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人間とロボットの未来は、トイレ掃除がカギを握っている

 

●トイレ掃除はサービス業の大問題

お店のトイレに入って清掃表を見たことはあるだろうか?

「決められた通り、○時○分にお掃除しました」という証明に、

それぞれのスタッフがハンコを押すアレ。

 

あれを見るたびに、

「ああ、もっとスタッフが楽できる方法はないのかなぁ」と

思ってしまう。

 

そして、このAI・ロボット社会の黎明期にあって、

このトイレ掃除こそ、

いの一番にロボットの力を借りるべき部分ではないかと思う。

 

大勢のお客さんが出入りするお店は、

とにかく掃除が大変だ。

やってもやってもすぐに汚れてしまう。

そのため、30分おきとか1時間おきとか、

かなりの頻度で掃除しなくてはならない。

 

けっして生産的な仕事ではない。

にもかかわらず、重要度は相当高い。

トイレがきれいか汚いかというのは、

その店の印象を大きく左右するからだ。

 

特に飲食店などではイメージを決定づける一大要素になる。

どんな高級レストランや、お洒落で美味しいお店でも、

トイレが汚かったりすると、どっちらけ。

食事の満足感がご和算になったりもする。

 

男の僕がそう思うくらいだから、

女性はもっと敏感だろう。

 

●トイレこそ機械不可侵の、人類の聖域

もちろん、ちゃんとした経営者は

そういうところがよくわかってて、

スタッフに指示してまめに掃除を行う。

 

しかし、ヒマな時間ならいいけど、

多忙な時間にそれを実行するのは、たいへんな負担だ。

少し大げさかもしれないが、

サービスの質を落とすことにもなりかねない。

 

それで僕はロボットに掃除を任せよう

――と提案するのだが、

これは意外とハードルが高いようだ。

 

床掃除のロボットはすでに出ているが、

トイレ掃除のロボットというのはまだ聞かない。

 

ロボットにとってトイレという場所は難易度が高い。

何といっても水を使う場所は、機械に不向きだ。

 

自分でやってみるとわかるが、トイレ掃除は

床掃除などと比べて、ずっと複雑で細かい動作を必要とされる。

それも割と小さなスペースの中で動かなくてはならないので

けっこう大変だ。

 

そしてまた、排せつはロボットが体験できない行為。

ウンコやオシッコの構成物質については

科学的に分析出来るのだろうが、

人間があの空間に求めるデリカシーを

はたしてどこまで理解し、配慮し、実現できるのか。

 

ある意味、トイレこそ最も人間らしいスペースであり、

機械が入り込めない最後の聖域なのかもしれない。

 

●ロボットカフェがオープンしても、

トイレ掃除は人間の仕事

ところで今度、12月5日に渋谷の東急プラザに

「Peppar PARLOR」なるカフェがオープンする。

「ロボットと過ごす未来を体感できるカフェ」が

キャッチフレーズで、

店名の通り、かのPepparくんをはじめとする

ロボットたちがおもてなししてくれるようだ。

当然、話題になるだろうし、

僕もぜひ行ってみたいと思う。

 

https://robotstart.info/…/…/06/pepper-parlor-menu-robot.html

 

だけど、Pepparくんは看板スターだ。

トイレ掃除なんかしないだろう。

 

床掃除をするロボットはいるらしいが、

こいつもトイレは無理だと思う。

 

今日までマイナビでアルバイトの募集をしていたので、

トイレ掃除は彼ら・彼女ら人間の仕事になるに違いない。

 

(トイレはお店専用でなく、そのフロアの共用トイレを使う

可能性があるので、Peppar PARLORのアルバイトさんたちは

掃除はせずに済むかもしれない)

 

要するに、AI・ロボット社会は始まったばかり、

まだそういう段階だということ。

 

●トイレ掃除ロボットは今後最大のビジネス

しかし、こうした問題のあるところにこそ

ビッグなビジネスチャンスがある。

 

ロボットメーカーか、トイレメーカーか、清掃会社か

いずれか、あるいは共同で、

高性能(と言っても人間お清掃員ができるレベル)の

トイレ掃除ロボットを開発したら、

とんでもなく儲かるのではないだろうか。

 

店でも駅でも公共施設でも、

入口の隅でちょこんと坐って待っているロボットが、

トイレの汚れを感知して、いそいそと入っていって

キュキュキュと素早くきれいにしてくれる――

そんなトイレ掃除ロボットが活躍じ始める時こそ、

本格的なAI・ロボット社会が来るのではないかと思う。

 


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人間味豊かな会社だね、と思われたい

 

先日、とあるIT企業に取材に行って感じたことがある。

彼らは自社が提供する製品――システムの優秀さよりも、

そのシステムの運用をサポートし、、

お客さんと心を砕いたコミュニケーションを取っている社員が、

いかに人間味があって優しいかをアピールしていた。

 

それが何だかすごく面白くて、

もしかしたら、これから先はこういう会社が

増えるかも知れないなと思った。

 

システムエンジニアなどの仕事をしていると、、

毎日、年中、コンピュータに向き合わなくてはならない。

 

AIの保守管理についてはよく知らないが、

その担当者もやはり機械と向き合う日々なのだろう。、

 

そうした人たちはたぶん、

パソコン漬けの生活を続けることに対して

そこはかとない危機感を持っている。

 

そして、同じ社内の人たちも、

どこかでそういう人たちの生活状況を慮っている。

 

あまりクールで機械的なイメージが鼻についてしまうと、

お客さんから嫌われたり、

社会に対する企業イメージが低下すると思っているのだ。

 

カッコいい車やマシンやロボットを作っている会社なら、

クールでカッコいいイメージの方がウケるだろう。

 

しかし、システム開発といった“普通の”IT企業だと、

あんまりクールでスマートな自己イメージには

抵抗があるのではないだろうか。

 

それよりもちょっとくだけたところ、抜けたところ、

笑えちゃうところ、人間として可愛いところをアピールしたい――

あたたかい人肌のある会社だと思われたい。

そう考える。

 

AI・ロボット時代において、

優秀である、役に立つ、機能的である――

といったエリート人間の

価値は下がるかもしれない。

 

それよりも「人間味」がより高い価値をもち、

重要なキーワードになる。

そんな気がする。

 


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なぜキャンデーズが三体のコケシのように見えたのか?

 

●その日の衝撃ビジュアル

先日、たまたまテレビで

キャンデーズが歌っているのを目にした。

懐メロ歌番組をやっていたのだろう。

 

その時、反射的に「頭でかっ!」と思った。

まるで三体のコケシが並んで踊っている

――というより体を動かしているように見えてしまった。

 

結構な衝撃ビジュアルだった。

キャンディーズファンの人が読んでいたら、ごめんなさい。

 

キャンディーズは確か僕より少々年上だから、

もうオーバー還暦だ。

少年の頃、テレビで見ていた時は、

それなりにスタイルの良いアイドルに見えたが、

なんだだろう?

 

答はカンタンだ。

現代の小顔でスラッとスタイルもよく、

ダンスもうまい若いアイドルを

いっぱい見慣れているからである。

 

キャンディーズと現代の何チャラ48とか46を

比べたことはなかったけど、

その日改めてその大いなるギャップに気付いた。

 

●若い世代は進化している

やはりこれは「進化」なのだろう。

他の国の人のことはよく知らないが、

日本人は明らかに進化している。

 

世代が進むごとに、外見もスタイルもよくなり、

歌やダンスやスポーツのパフォーマンスも上がり、

頭もよくなり、いろんな能力も上がっていると思う。

 

そんなことを言うと、メイン視聴者である

おっさんやおばさんの機嫌が悪くなるので、

テレビなどは

「今時の若いもんはこんなアホでダメダメですよ~」

みたいなことをよく言うが、

総合的能力としては

明らかに若い世代の方が勝っている気がする。

 

社会が豊かになり、余裕ができたおかげなのか。

まずベーシックな衣食住が整い、インフラも整った世界に変わった。

 

その中で、巷にあふれるいろんなメディアから

音楽を、アートを、アスリートの活躍を、

そして夥しい量の情報を日々、

シャワーのように浴び、空気のように吸い、

目から、耳から、鼻から、お尻の穴から採り入れていると、

知らず知らずのうちに人間の心身は化学変化を起こす。

若い世代にはそれが顕著だ。

 

●DNAが弾けて未来は天才だらけ?

思うに、人間はもともと環境に合わせて

とても柔軟に対応し、進化できる生き物なのだと思う。

 

生物学的なDNAとはべつに、

社会的・環境的DNAと呼べるものも

備わっていて、それが働くのかもしれない。

だからこれだけ地球上で繁栄しているのだろう。

 

AI・ロボットが面倒な労働を引き受け、

人々が普通に宇宙に行く時代になれば、

ますますそうした社会的・環境的DNAが弾けて、

もっともっと非常識な才能を持った、

現代なら「天才」と呼ぶべき人間が

普通に街にあふれるようになるだろう。

 

そういえば最近、いろんな天才キッズが

メディアで紹介されるが、彼らはその先駆けなのだろうか?

 

僕らのひ孫くらいの時代になると、

とんでもない才能にあふれた子どもらに

囲まれて暮らすことになるんじゃないだろうか。

 

ちょっと怖いけど、怖いくらいのほうが面白い。

 


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若者がレコードを聴くのは、デジタル時代へのアンチテーゼなのか?

 

最近のレコード事情について勉強していて、

「デジタル化が進む現代に対するアンチテーゼとして」

という一文に出会った。

 

音楽産業マーケティング「MusicWatch」が調べたところ、アメリカにおけるアナログレコードの購入者は35歳以下が全体の7割を占め、学生時代からインターネットやパソコンのある環境で育ってきたデジタルネイティブ世代の需要が高いようです。

 

その理由は、デジタル化が進む現代に対するアンチテーゼ。楽に音楽を聞くのではなく、A面からB面へとひっくり返すような手間こそがライブやフェスに参加するような「非日常的な体験」として若者たちから支持されています。

 

また、レコードならではの「所有感」も若者は魅力に感じているようです。デジタルは簡単にコピーされてしまうのに対して、レコードは自分だけのもの。「個人の所有物」という感覚が持て、他の人とは違う満足感や達成感を味わえることが嬉しいようです。

 

「どうやって売る? どこに売る? レコード買取ナビ」

http://www.dokoniurou-record.net/market/youth.html より引用

 

 

一言で言ってしまうと、今の世の中で、

自己喪失の恐怖を

若い連中は肌でひしひしと感じているのだ。

 

ハロウィーンの子供じみたバカ騒ぎも、

そうした不安や恐怖から逃れる、一つの手段なのだろう。

 

大人は否定的に見るが、

僕も10代・20代だったら、

同じように渋谷に繰り出して騒いでいただろう。

今はそういう気分にならないことに、

ちょっぴり寂しさを覚えたりして。

 

いずれにせよ、今年は大した事件やトラブルが起こらなくてよかった。

 

話を戻すと、自己喪失の恐怖に襲われることは、

何も今に始まったことではない。

昭和だって、明治だって、江戸時代だってあっただろう。

むしろ、それは一生懸命生きている証拠なのではないか。

 

ただ、現代は情報化が進んでいるので、

誰もがより自覚的になっているのだと思う。

昔と比べて、みんな識字率が上り、

知識が豊富になったのだからしかたがない。

 

潰れないようにがんばれと言うしかない。

でも、レコードを発掘して、

デジタル化時代のサバイバル方法を工夫するなど、

彼らは彼らで、ちゃんと対策をしている。

 

子どもは放っておいても育つもの。

大人はそんなことに余計なおせっかいをする前に、

子どもらが呆れるような、自分たちの言動を見直した方がいい。

まだまだ先は長いんだから。

 


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見捨てられた恋人のようだったアナログレコードが、 なぜ絶滅の淵から回帰したのか?

 

●古き時代への浪漫、だけではない

長年、レコードコレクターがいるのは知っていたが、

それは考古学者が目を輝かせて

恐竜の化石を発掘する

―ーそうした喜びに似ているんだろうと思っていた。

 

ひとことで言えば、過去へのノスタルジー。

古き時代への浪漫、郷愁。

 

年輩のコレクターにはこれに当てはまる人が多いようだが、

最近のレコード事情を探ってみると、

どうもそれだけではない。

 

アナログレコード未体験の若い世代の中にも

結構レコードファンが増えているのだと言う。

 

どうやら彼らはレコードを、

CDやYouTubeやデジタル配信と競合するものでなく、

まったく別種のメディアとして捉えているようだ。

 

●アナログ未体験世代に非日常を提供する

それは形態の違いというよりも、

「聴くスタイル」の違いだ。

 

音楽を聴くのなら、レコードかラジオ、プラス、

ごく一部のテレビ音楽番組など、

非常に限られた選択肢しかなかった僕たちと比べ、

今の若い奴らは何でも選び放題だ。

それにお金もたいして掛らない。

 

その豊富な選択肢の中から、

他と比べて高価なアナログレコードを選ぶのは、

なぜなのか?

 

また、デジタル配信などで聴いている

同じアーティストの同じ曲を、

わざわざアナログレコードで聴くというのは、

どういう心理が働くからだろうか?

 

もちろん人それぞれ理由があると思うが、

あえて概論として考えてみると、

それは生活の中のいろいろなシーンに合わせて

「聴くスタイル」を変えるから、ではないだろうか。

 

デジタル系の音楽が、

掃除や洗濯の時のBGM、

仕事をするときのBGMなど、

日常に溶けこんだものだとすれば、

 

アナログレコードは同じアーティスト、同じアルバム、

同じ曲を聴いても、

それは「非日常体験」になるんだろうと思う。

 

プレイヤーの上に盤を置き、

アームを上げて、静かに針を落とし、

数秒間、演奏が始まるのを待つ。

 

そんな面倒な作業を通して得られる、

何ともいえない緊張感は、

演劇や映画を観る時の体感に似ている。

 

ライブコンサートも非日常体験だが、

それと異なる、自分だけの非日常の世界。

間断なく入り込んでくる情報という名のノイズに

侵されない聖なる時間。

 

そういう世界・時間を内に持つことは、

事あるごとに「社会の歯車」的な感覚を覚え、

アイデンティティを見失い、

日々、生きる意味を問われる今の時代にあって、

自分を育てるのに大切なことだ。

 

ジャケットなどのアートワーク、

歌詞カード、ライナーノーツ、

さらにさまざまな「おまけ」など、

その音楽にまつわるストーリーが

パッケージされたレコードは、楽しさとともに、

そうした自己育成のタネも与えてくれる。

 

●アナログレコードが真価を発揮する時代が来る

1980年代後半の軽薄短小の時代、、

重くて嵩張って、収録時間も短くて、

もはや無用の長物じゃないかと思ったレコード。

 

多くの人が、こんなもの、20世紀の化石じゃないかと審判し、廃棄・二束三文売却の対象となったレコード。

 

見捨てられた、かつての恋人のように、

ネグレストされた子どもか老人のようになってしまったレコード。

 

けれども、その命はレコードを愛する人たち、

レコードを生きる支えにする人たちの手によって守られ、

この30年余りの間、途絶えずに継がれてきた。

命は耐えていなかった。

 

絶滅の淵から回帰したアナログレコード。

一度廃れたからこそ、レコードの文化は

これから先、その奥底に眠っていた真価を発揮し、

人間の心を癒し、活性化させるメディアとして

再び成長するのかもしれない。

 

新しい仕事を戴いたことをきっかけに、

レコード文化復活にまつわる様々なストーリーを探り、

描いていけたら、と思う。

 


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