虚と実が融合する映画「八犬伝」

 

「南総里見八犬伝」は

江戸時代の作家・滝沢馬琴が書いた長編小説。

1814年に始まって、

1842年の完結まで28年かかって世に出された、

世界に誇れる傑作エンタメファンタジーです。

 

運命に導かれて集まった仲間が

力を合わせて敵と戦うという勧善懲悪パターンは、

神秘的かつ痛快で、この活劇をモチーフにした

コンテンツが200年の間に続々と作られました。

今日の日本のマンガ・アニメ文化の基盤を築く

一要素になったことは、疑いようがありません。

 

僕の八犬伝との出会いは、

小学生の時に見たNHKの人形劇でしたが、

それ以後も「八犬伝」から

いくつもの映画やマンガが生まれるのを見てきました。

 

いちばん最近のものは、

昨年秋に劇場公開された映画「八犬伝」でしょう。

僕は見逃していたので、先日、アマプラの配信で視聴。

公開の時は評判はイマイチだったようですが、

とても楽しめました。

 

虚と実、二つの世界がパラレルで進む構成で、

虚はご存じ、八犬伝の活劇世界です。

原作に忠実なのはいいのですが、

ストーリーの上っ面をサーっと撫でているという感じで、

今一つ物足りないのですが、

それでもやっぱり面白いのは、さすが八犬伝。

名刀・村雨を持つ犬塚信乃、女装の犬坂毛野、

少年剣士の犬江親兵衛などはとてもイケメンで、

画面も派手で美しい。

 

それに対する実の世界では、

作者・滝沢馬琴と絵師・葛飾北斎、

二人のむさいジジイの対話で進みます。

これに「東海道四谷怪談」の戯作者・鶴屋南北が絡んだりして、

彼らの創作に対する考え方・思いが伝わってきて味わい深く、

このむさいじいさん・おっさんたちから

ああした華麗な物語や絵画が生まれたのが面白い。

 

まるで現代人のような、滝沢馬琴の家庭の事情

(一人息子がニート状態)も描かれていて、

これも考えさせられます。

 

いよいよ最終章、物語がクライマックスに差し掛かったところで

馬琴は失明。目が見えなくなり、執筆できなくなります。

「八犬伝」は未完の大作に終わるかと思われたときに、

代筆者として名乗りを上げたのが息子の嫁でした。

 

この嫁は無学で字もろくに書けない女性なのですが、

義父である馬琴が字を教えながら、二人三脚でがんばり、

わずか8か月で残りを仕上げ、物語を完成させます。

 

すごく感動的なエピソードですが、

この嫁がどうして馬琴に尽くし、代筆をやろうと思ったのか?

夫を先になくして寂しかったから?

義父のことを好きだったから?

「八犬伝」が好きだったから?

 

そのあたりがドラマとして描かれていないので、

どうも腑に落ちないのですが、それでも物語は最期を迎え、

馬琴の仕事は成就しました。

そして、まるで最近の

ファンタジー系アニメやマンガのお約束事のように、

戦いで命を落とした犬士たちも生き返るのです。

 

僕も小説などを書いているので、虚実が融合し、

馬琴と八犬士が遭遇するラストシーンには、

涙を抑えきれませんでした。

 

不平・不満はありますが、やっぱり八犬伝は面白いし、

創作の舞台裏も描かれたこの映画には、

単なるエンタメを超えた奥深さがあると思います。

 


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きらめく都会や死の国を旅する「星の王子さま」

 

小さな劇場の何もない舞台は、想像力が刺激される、

自由で可能性に満ちた空間です。

今日はここで「星の王子さま」の舞台を見ました。

 

原作はもちろん、サン・テグジュペリの童話。

壁面全体にしわをつけたベージュの模造紙を張り付け、

あの物語の舞台になる砂漠のイメージを表現しています。

 

内容は原作をなぞるものではなく、

生演奏やダンスが随所に交じる、

音楽劇風・イメージコラージュ風の構成。

前半は、王様、実業家、のんべえ、点灯夫など、

へんな大人がいる星をめぐる旅など、

原作に出てくるエピソードを仮面劇で見せたり、

後半は王子様とキツネがともに

パリと東京を合わせたような、

きらびやかな都会の街を探索したり、

地下にある死の国をめぐり歩く

オリジナルのエピソードを取り入れたりと、

自由自在な展開で、不思議な世界に引き込まれました。

 

王子様役の女性はクラシックバレエの心得があるようで、

随所で王子の心情をダンスで表現します。

彼女のビジュアルは、絵本のイラストそっくりでありながら、

不思議なエロシティズムと、

物語全体を包む切なさ・寂しさが感じられて魅力的でした。

上演したのは、

カミさんの仕事仲間である鍼灸師の奥さんが主宰する

「クリスタルレイク」というグループ。

この奥さんというのは、もともと新劇俳優で、

劇団新人会のメンバーだった人だそうです。

大ベテランですが、キツネ役として登場した

彼女の動きはキレがよく、

せりふ回しもクリアで「生涯現役」を感じさせました。

 

僕たちはこうした小劇場演劇に感化された世代ですが、

昨今の舞台演劇は、

やる側も見る側もシニア世代のものになりつつあるようです。

これも時代の趨勢なのでしょうが、

若い人たちにも、こうした変幻自在の小さな空間で描かれる

リアルでアナログな演劇の空気を、

若い人たちにも、ぜひ体験してほしいと思います。

 

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映画「怪物」と脚本家の来歴、フジテレビのドラマについて

 

是枝裕和監督の映画「怪物」を見た。

息子を愛するシングルマザー、

生徒思いのまじめな小学校教師、

そして無邪気な子どもたちが送る平穏な日常。

それがある小さな事件がきっかけでガラガラと崩れる。

その背後にいるのは、正体不明の怪物。

ひとことで言えば、

タイトルの「怪物」とは誰か?何か?を追究する物語だ。

 

それは親なのか? 教師なのか? 

学校という組織なのか?

それとも子供たちなのか? 

いったい何なのか?

 

前半は学校と家、地域を舞台とした、

リアルでドキドキするサスペンス。

そして後半からクライマックスは、

それが一種のファンタジーにまで昇華する。

 

還暦を超えても全く衰えを感じさせない

是枝監督のクリエイティビティに舌を巻く。

 

音楽は最晩年の坂本龍一。

坂本龍一と言われなければ、

わからないくらい主張は少ないが、

随所でとてもいい味を出している。

 

そして脚本は坂元裕二。

いまや日本を代表する脚本家だが、

彼は1987年に初めて行われた

「フジテレビヤングシナリオ大賞」の受賞者。

つまり、フジテレビが発掘した才能だ。

1991年の、あのフジ・トレンディドラマの代表作

「東京ラブストーリー」の脚本を手掛けた人でもある。

 

坂元氏はその後、テレビ業界が嫌になり、

一時的にテレビドラマの脚本を書かなかったこともあり、

最近はもうプロフィールにも

「東京ラブストーリー」については触れられていない。

 

そんな大昔のことなど持ち出す必要もなく、

クオリティの高い作品をコンスタントに手がけ、

充実した活動を展開しているからだろう。

この作品は、第76回カンヌ国際映画祭の

コンペティション部門で脚本賞も受賞している。

 

そんな坂元氏を輩出した1990年代のフジテレビは、

恋愛を中心としたトレンディから

先鋭的なサイコサスペンスまで、

ドラマの制作能力がとても高く、

TBSと競い合うように傑作・問題作を次々と放送していた。

 

それはもうすっかり過去の話だが、

そうしたコンテンツ制作の資産は残っているはずだ。

サザエさんや、ちびまる子ちゃんや、

ガチャピン&ムックもいる。

このままダメになるのは、あまりに惜しい。

 

けれども再出発のためには今いる、

過去の栄光に浴した経営陣営陣ではダメなことは明らか。

なんとか改革して、また優れたコンテンツ、

動画配信をしてほしいと願う。

 

フジテレビの話に傾いてしまったが、

是枝映画「怪物」はほんとに傑作。

カンヌで認められた、なんて話はどうでもいいので、

ぜひ、このドラマの奥に潜む怪物を

自分の目で発見してほしい。

 


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「海の沈黙」:心の主食になる映画

 

久しぶりに映画館で、

倉本聰・作の映画「海の沈黙」を観る。

すごくよかった。

久しぶりにずしっと腹に応える映画を味わったなぁという感じ。

派手でわかりやすくておいしいけど、

あまり栄養になりそうにもない、

おやつみたいな映画が多い中、

これこそ主食となる、心の栄養になる映画。

 

「生き残り」と言ったら失礼かもしれないけど、

倉本聰さんは日本のテレビドラマ黄金期、

そして衰退傾向だったとはいえ、

まだまだ映画が娯楽の王座にいた時代を支えた

作り手の「生き残り」だ。

(こんな言い方は失礼だと思うけど)

 

今年で齢89歳。うちの義母と同い年。

改めて履歴を見ると、

なんと、僕が生まれる前、1958年から

ドラマ作りのキャリアをスタートさせている。

 

この20年ほどの間に

同じ脚本家の山田太一・市川森一をはじめ、

同時代に活躍した作家や監督や俳優が

次々とこの世を去っていったが、

倉本聰さんは依然健在で、

「どうしても書いておきたかった」と、

60年温めてきた構想を実現した。

 

キャリアが長けりゃいい作品が書けるわけじゃない。

ものを書くには気力も体力もなくてはできない。

体内のエネルギー量がどれだけあるかの問題なのだ。

こんな気力溢れる作品を書く力が残っているなんで、

驚きと尊敬の何物でもない。

 

セリフの一つ一つ、シーンの一つ一つが重く、深く、

濃厚な内容は、昭和の香りがプンプン。

サスペンスの要素もあり、画面には2時間の間、

緊張感がみなぎって面白いので、

若い人にも見てほしいが、やっぱりこういうのは

ウケないんだろうなとも思う。

 

かくいう僕も、20代・30代の頃に

こういう映画を見て傑作と思えたかどうかは怪しい。

やっぱり齢を取らないとわからないこと、

味わえないものがあるのだ。

 

出演陣も素晴らしい。

なかでも中井貴一は飛び抜けてシブい。

それに比べて、主演の本木雅弘は

いま一つ軽いかなぁという感じ。

 

これまで小泉今日子をいいと思ったことは一度もなく、

倉本作品に合うのかなと思ったが、最高だった。

 

もと「なってたってアイドル」なので、

この類の人は、何かにつけて「経年劣化」を揶揄される。

けれども最近、不自然な修正画像やアニメ顔、

整形美女の不気味な顔を見過ぎているせいだろうか、

たびたびアップになる、しわの寄った顔が、

リアルでナチュラルで美しい。

そう思ったのは、やっぱり自分も齢を取ったからだろう。

 

カミさんと朝イチ(といっても11時半)の回に行ったが、

僕たちを含めて、観客はシニア割の人たちばかり。

やっぱり昭和の作り手、昭和の観客の世界だ。

間もなくこうした世界はむかし話になるだろう。

でも僕は、リアルで深遠な昔ばなしを

大事にしていきたい。

 


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終活映画「パリタクシー」と20世紀フランスの女性差別

 

毎月、ウェブサイトのコラム記事で

世界の終活映画の紹介をしているが、

フランスの近年の代表的な終活映画が

「パリタクシー」だ。

 

あらすじはシンプルで、これから施設に入居するという

92歳のおばあちゃんが、自分が住んでいた家から施設まで

タクシーに乗り、回り道をして、自分が暮らしてきた

パリの街を周遊するという物語だ。

 

タクシードライバーは当然、ひと癖ある中年男。

(変な奴が絡まないと、映画として面白くない)

いいおっさんだが、年齢は彼女の半分の46。

いわば息子と孫の中間みたいな、微妙な年齢設定である。

フランスも高齢化社会が進んでいるので、

こうした設定も面白く見える。

 

そしてまた、彼は当然のように、人生に問題を抱え、

経済的トラブルに苛まれている。

それでも救いは、彼がなんとか家族を守りたいと

考えているところだ。

 

しかし、タクシードライバーのギャラでは、

とても短期間にこのトラブルを解消しようにない。

つまり、追い詰められているのである。

 

しかし、ご安心を。

彼はけっして闇バイトに手を染めたり、

乗客であるおばあちゃんを脅したり殺したりして

カネを奪ったりしない。

 

これはそうした類のブラックなドラマでなく、

コメディ要素の強いヒューマンドラマである。

だから、こうした映画のお決まりで、

最初、ぎくしゃくしていた二人の仲は

しだいに打ち解け、おばあちゃんは

自分の思い出を彼に物語るようになる。

 

じつはその内容が、かなりブラックである。

僕が驚いたのは、彼女が若い時代、

1950年代のフランスでは、

まだひどい女性差別がまかり通っていたことだ。

 

何となくではあるが、20世紀にあって、

芸術・文化が発達したフランスは、

世界で指折りの先進的な国で、

女性が大事にされていたーーというイメージがあった。

 

この映画で語られていることは、

たぶん史実に基づいていることだと思うので、

かなり意外だった。

ほとんど昭和日本と変わらない。

もっとひどいぐらいである。

 

そして、彼女がより悲惨なのは、

暴力をふるった夫だけでなく、

可愛がった息子にも裏切られてしまうこと。

息子の裏切りは、当時のフランス社会の

現実を象徴しているのだろう。

 

普通のおばあちゃんのように見えたのだが、

ヘヴィなドラマを抱え、社会の差別と闘って

92歳まで生き延びたのだ。

 

厳しい人生だったが、

それでも私は良い時代を生きたと、彼女は語る。

そんな彼女の心情を表すかのように、

全編にわたって古いジャズが心地よく流れていく。

 

最後はとても心あったまる終わりが待っている。

てか、こんなおとぎ話みたいなオチって、

いくらヒューマンタッチの終活映画とは言え、

今どきアリ?みたいな感じ。

 

でも、人生がこんなおとぎ話で終わるならいい。

観た人の多くが、きっとそう言うと思う。

 


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ベッソン映画「DOGMAN」は「GODMAN」

 

犬を自由に操る女装のダークヒーロー。

壮絶なアクション。

監督は「ニキータ」「レオン」のリュック・ベッソン。

 

ということで、ベッソン特有の

妙に重量感のあるアクションシーン、

そして、目を覆いたくなるような暴力・殺人シーンが

先行して頭に浮かんで、

しばらくためらっていたが、やっと見た。

 

良い意味で裏切られた。

「ドッグマン」(2023年)は、人間の美しさ、

そして、犬の美しさを描いた、すごくいい映画だ。

これはAmazonPrimeでなく、

映画館で観るべきだったかもしれない。

 

何と言っても、主役ダグラスを演じる

ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが魅力的。

 

少年時代、彼は父と兄に虐待されて

犬小屋に放り込まれて生活することになり、

障害を負いながらやっと脱出する。

その後、養護施設で、のちにシェイクスピア女優になる

養護員の女性に芝居を通して生きる喜びを学び、

彼女に恋をして成長する。

 

しかし、そんな彼に世間は決してやさしくない。

やがてドラッグクイーンとなって歌って

アイデンティを保つ一方で、

犬たちと生活するために犯罪に手を染める。

そうした変化の在り様・人間形成の在り様を

じつにビビッドに演じ描く。

 

また、紹介文や予告編などから、

犬たちは恐ろしく凶暴で、獰猛で

野獣的な犬を想起させるのだが、

意外にもけっこう可愛いのが多い。

 

随所に人を襲うシーンがあり、

クライマックスのギャングとのバトルでは

それこそ壮絶な闘いを繰り広げるが、

けっしてリアルには描かれず、

ここで出てくる犬たちは、

ファンタジーの領域にいる生き物のように見える。

動物愛護団体の視線もあるので

襲撃・戦闘シーンは、

あまりリアルには描けないという

事情もあるのかもしれない。

 

ベッソンの映画はアクションやバイオレンスばかりが

取りざたされる感があるが、

彼のドラマづくりは、

いつも人間の美しさ・崇高さを追求している。

そういう意味では、

アクションで売り出す前の出世作「グランブルー」で

前面に出ていたファンタジー性こそ、

ベッソン映画の真髄・醍醐味なのだと思う。

 

この映画では最後にそれが表出される。

ラスト5分は本当に美しく、

ダグラスは人間を卒業して神になるかのようだ。

そして犬たちがダグラスを導く

天使のように見えて涙が出た。

「DOGMAN」は「GODMAN」。

アナグラムになっているのだ。

 

一つ気になるのは、全体の雰囲気が

「ジョーカー」(2019年)によく似ていること。

こちらも主役ジョーカー(アーサー)を演じた

ホアキン・フェニックスの怪演が見ものだが、

「児童虐待」「障がい者差別」「貧困との戦い」

これらを物語の根底のテーマに

置いているところも同じだ。

 

別にパクリだとは思わない。

こうした個人的問題と社会的問題が

ダイレクトにつながって感じられる点が現代的で、

映像系であれ、文学系であれ、

エンタメコンテンツに求められている

現代的役割の一つなのだろうと思った。

 

ちなみに「ジョーカー」の続編、

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が

来月、10月11日(金)劇場公開。

なんとレディー・ガガが共演する。

 


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宇野 亞喜良の世界とアングラ演劇

 

「90のじいさんになっても少女を描いているって

変態だよね」

先日テレビで、美術家の横尾忠則と

イラストレーターの宇野 亞喜良が

話していたのをチラ見した。

 

前述のセリフは横尾氏が宇野氏に言ったもの。

16日の日曜まで東京オペラシティのアートギャラリーで

宇野 亞喜良展をやっているので、

それに関連した番組だったようだ。

 

「変態」なんて言われて、

さすがにムッとした表情を見せていたが友達同士だし、「(常識的なことにとらわれない)天才」の、

横尾流の表現なので、

特にケンカになることもなく対談は続き、

最後はいっしょにメシを食うところで終わっていた。

 

宇野 亞喜良の絵の世界の主役は女性だが、

別に少女専門というわけでなく、

大人の女も描いている。

寺山修司の本や演劇の美術もよくやっていたので、

寺山流に言えば「青女(せいじょ)」が多い。

 

青女とは、「少年」に対して「少女」があるように、

「青年」に対して「青女」という言葉があっていい。

そう言って寺山修司が1970年代に出した

「青女論」というエッセイに出てきた言葉だ。

 

宇野 亞喜良の描く女の絵の特徴は、

笑わない顔と奇妙にアンバランスな体型。

 

笑わない顔は「大人や男に媚びない表情」と

よく言われる。

重心が下りていない、アンバランスな体型は、

女になりきっていない少女・青女特有のもの。

 

どこの画家か漫画家か忘れたが、

「少女の体型がアンバランスに見えるのは、

この世界に存在することにまだ慣れていないからだ」

といった類のことを言っていて、

ちょっと感心したことがある。

 

クリエイターが好んで描いて見せる、

10代後半の女の子特有の透明感とか、

ちょっとミステリアスな雰囲気は、

そういうところと繋がって

醸し出されるのかもしれない。

 

僕も熱心なファンというわけではないが、

寺山修司が好きだったこともあり、

宇野 亞喜良の絵は昔からよく目にしてきた。

イラスト・美術の世界ですでに60年以上、

第一線で活躍してきた人だが、

その魅力はまったく色あせない。

 

横尾忠則もそうだが、このレジェンド美術家たちは、

本当に最後の最後まで

現役の「変態じいさん」を貫きそうだ。

 

そんな宇野 亞喜良氏の最新作か。

先日、唐組の紅テントの芝居を見た時、

彼のイラストが載ったチラシをもらった。

 

今週末から花園神社で始まる新宿梁山泊の

「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」。

唐組の紅テントに対して、こちらは紫テント。

寺山修司でなく、唐十郎の状況劇場時代の芝居で、

豪華キャストが出演する。

たぶん連日満員大入りだろう。

 

宇野 亞喜良の、アンバランスで媚びない女たちの世界

(そしてたぶん横尾忠則の世界も)を培ったのは、

やはり1960~70年代のアングラ演劇カルチャーという

肥沃な土壌だったのだろうと思う。

 


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唐組公演「泥人魚」観劇記

 

先月亡くなった劇作家・唐十郎さんの供養もかねて、

新宿・花園神社に唐組の公演「泥人魚」を、

観に行ってきた。カミさん・息子が同伴。

この時代になると、テント芝居は貴重なアナログ体験だ。

 

●すべて人力のアングラテント演劇

切符の販売とか、精算方法(現金のみ)とか、

入場整理(劇団員が大声を上げて整列させる)とか、

デジタルでもっと効率的にやる方法があるのでは・・・

と思うが、たぶんないのだろう。

それにこういうやり方を続けてほしい、

という客の願いもある。

 

テントという、日常と異なる異空間に侵入するためには、

それなりの段取りが必要で、

すんなり簡単に事が運んでしまっては面白くない。

言い換えれば、忙しくて時間が取れない、

もっとタイパを良くしろという人には味わえない、

アナログ・人力ならではのぜいたく感が味わえる。

 

ござに座って見る昔ながらのアングラ式桟敷席に
(おそらく)500人くらいが詰め込まれたテント内は
現代の高齢化社会の縮図のような風景で、
半数近くが僕の同年代(60代)以上。
残りの半数がそれ以下で、男女比は半々か、
男性がちょっと多めかなという印象だ。

息子(20代後半)やそれ以下の若者もけっこういて、

 

中には高校生らしき子の姿もチラホラ

(学校帰りなのか、制服を着ていた)。

「入場料:子供2000円」とあったが、

さすがに子どもはいなかった。

でも、子供がこうした観劇体験をしてもいいと思う。

 

●状況劇場の幻影

僕は李麗仙・根津甚八・小林薫などが活躍していた

70年代後半~80年代初めの状況劇場に洗礼を受けている。

そのため、唐さんの芝居作品にはどうしてもあの頃の、

卑俗なものを聖なるものに転換させる、

リリカルでスケールの大きい幻想ロマンを求めてしまい、

唐組以降の作品にはイマイチ魅力を感じてこなかった。

けれどもこの「泥人魚」という作品には、

状況劇場時代の作品とは全く異なる魅力があった。

 

●諫早湾「ギロチン堤防」から生まれた物語

モチーフになっているのは、

「ギロチン堤防」という呼称が衝撃的だった

1997年の長崎県諫早湾干拓事業問題。

湾と干拓地を遮断する293枚の鉄の板(潮受け堤防)が

すごいスピードで次々と海に落とされていく

ギロチンシーンはかなりのインパクトがあり、

人々の関心も高かった。

(テレビのニュースなどで放送された)。

 

これはもともと戦後間もない頃に農地を増やすため、

国が計画した干拓事業、いわば国家プロジェクトだ。

これによって、かつて「豊饒の海」と言われた

諫早湾の環境は一変して、漁獲量は激減。

漁業者と農業者との対立をはじめ、

損得を巡って地域住民の深刻な分裂が起こり、

20年あまりにおよぶ長い裁判になった。

 

●ドキュメンタリーを重視した劇作

唐さんはその裁判が始まった2002年9月に

諫早湾まで取材に行き、自分の目で現地の海を見て、

この戯曲を書いた。

その経緯は、新潮社から出版されている戯曲のあとがきに、

また今回の観劇プログラム掲載の、

演出・久保井研氏のコラムに書かれている。

ちなみにこの久保井氏のコラムは、

唐組における劇作活動の様子が垣間見えて興味深い。

 

唐さんは、状況劇場の時代は自分が生まれ育った、

終戦直後の東京の下町の風俗や人々の暮らしと、

思春期から学生時代の文学・芸術体験をベースに、

60年代・70年代の世情を取り入れて

独自の劇世界を構築していた。

しかし、1988年に始まった唐組時代の作品では、

その時代ごとにクローズアップされる

現実の社会問題に材を取り、

いわばドキュメンタリー的な要素に重きを置いて

みずからの劇世界を継続・進化させていったようだ。

 

とはいっても、舞台に上る成果物は、

やはり常人には真似できない

妄想ワールドであり、イメージコラージュである。

「ギロチン堤防」という現実の材料から、

人魚姫、天草四郎、ハリーポッター

(2002年当時大ブームだった)など、

次々と出てくる連想がキャラになり、セリフになり、

アクションになり、劇世界をかたち作る。

あとは観客がどこまで想像力を駆使して

それについていけるかだ。

 

●もののけ姫と泥人魚

これはもちろん、紅テントで上演することを前提に

書かれた作品だが、普通の劇場でやっても、

あるいは映画や映像+詩みたいな作品にしても

面白いのではないかと思った。

もちろん、その場合はアレンジが必要だと思うが、

人々がネットの世界など、より現実と乖離した人工環境に

(精神的に)移り住み始めたこの時代、

海・地と人の日々の暮らしとが

緊密に繋がっていた時代の記憶を綴るこの物語は、

ある種の普遍性を孕んでいるのだ。

 

ちなみにいっしょに見た息子の感想は

「要するに『もののけ姫』だよね」。

うん、その通りとは言わないけど、そう遠くはない。

若い世代の感想としては面白いと思う。

みんな気にしているテーマなのだ。

 

終幕、ブリキの鱗を作り続ける男の口から

最後にこぼれ落ちるセリフ、

そしてお決まり通り、テントの背景が開いて

劇世界と現実の風景と溶け合うラストシーンは、

やはり状況時代と変わることなく、

卑俗なるものを聖なるものに変え得る、

唐作品独自の力と美しさに溢れている。

 


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劇団ホシ灯りの朗読劇「マクベス」

 

めっちゃ美女なのに、めっちゃ邪悪。

どうせいつか死ぬのなら、

そういう女に溺れて死にたい。

――というのは男子なら一生に一度は見る夢。

(そんなことない?おれだけ?)

 

そんな妄想を広げていたら

頭のどこかから

「きれいはきたない、きたないはきれい」

というセリフが響いてきた。

 

ご存知、シェイクスピア劇「マクベス」の

オープニングに登場する魔女のセリフ。

久しぶりに「マクベス」を読みたくなったが、

手元にないので、YouTubeを覗いてみたら、

朗読劇がアップされていた。

 

「劇団ホシ灯り」という所はまったく知らなかったが、

聴いてみるとなかなか気持ちよく聴ける。

手だけ動かしていれば進められる

単純な仕事ならBGMとしても利用できる。

 

改めてシェイクスピアの劇は素晴らしいと思うとともに、

余計なビジュアルがない分、

ストレートにセリフが伝わってくるのもいい。

もちろん、マクベスのストーリーを知っているからだが、

脚色も朗読劇用にかなり圧縮して

上手く作っていると思う。

 

シェイクスピア劇の面白さを

従来とは違う角度から味わえる気がする。

 

気になって「劇団ホシ灯り」を調べてみたら、

どうもこの脚色・監督の女性がひとりで

やっているらしい。

劇団ひとり?

役者はそのプロジェクトごとに集めてくるのだろうか?

いずれにしてもなかなか面白いので、

他のも聴いてみようと思う。

 


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糸姫/状況劇場

 

YouTubeで状況劇場の音源が上がっていたので、

思わず聴いてしまった。

 

1975年秋の公演「糸姫」の千秋楽の舞台。

じつはこの「糸姫」は僕らが演劇学校で上演した

唐作品の一つ(1979年7月)である。

 

紡績工場の女工と、

労働の価値を考える

しがないサンドイッチマンの男を中心に、

怪しい整形外科病院、

アドルフ・ヒトラーを狂信する院長、

紡績会社の跡取りのバカ息子、

そして、整形手術に失敗した女たちが

リボンの騎士となって登場。

地獄の天使ヘルスエンジェルスの

バイクまでが舞台を走りまわる

恐るべき妄想コラージュ。

 

とは言え、ちゃんと筋の通った物語になっていて、

2時間観客をくぎ付けにするのが、

唐十郎作品のすごいところ。

 

脚本(戯曲)はもちろん読んでいるが、

こんなライブ音源を聴くのは初めて。

かなりぶった切られていて、

たぶん半分強の尺になっているが、

見せどころ(聴かせどころ)はちゃんと抑えている。

それに相当良い席で録音したらしく、

50年近く前の録音と思えないほど音質が良い。

 

主役の絵馬(エマ)は李麗仙。

相手役の価(アタイ)は根津甚八。

二人ともめっちゃカッコよくて

改めてしびれて聞き惚れてしまった。

あまりに生き生きしているので、

どちらもこの世を去って久しいなんて信じられない。

唐さんが作る独特のリズムのセリフの群れは

美しい音楽のようだ。

 

また、最後に挨拶する唐さんの声が若々しく、

いたって“まともな人”のように聞こえるのが

なんだか面白い。

そして当時の観客の熱狂的な雰囲気も

きちんと記録されている。

 

ポスターは“ゲージツ家”篠原勝之。

唐十郎ワールドはインスピレーションを

いたく刺激するらしく、

横尾忠則以降、多くの美術家がポスター、チラシの

デザインを担当し、

その魅力的な絵も状況劇場の人気の一要素だった。

どうやら最近、これらのポスターは美術品扱いで、

ネット上でかなり高値で取引されているらしい。

 

また、クマさんこと篠原勝之氏は、

この戯曲を原作として同名の漫画本を出している。

「糸姫」とまた出会えて、とても嬉しい。

 


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アカデミーゴジラへの称賛と違和感

 

平成後半、何度もオワコンだと言われ、

アメリカに売り飛ばされていたゴジラがまさかの再生。

そして驚愕のアカデミー賞受賞。

その「ゴジラ-1.0」と、

作品賞をはじめ、各賞を総ナメにした

「オッペンハイマー」が同じ年に受賞したことには

何か因縁を感じるが、

あまりそんなことを考えている人はいないのかな?

 

以前も書いたが、昭和20年代を舞台にした

「ゴジラ-1.0」が

原爆投下や敗戦の傷跡をあまり感じさせなかったことに

けっこう違和感を覚えた。

もしやアメリカ市場に忖度してる?とも考えた。

今回の受賞で、ゴジラが水爆実験から生まれた怪物だという

オリジナル設定は忘却されてしまうのではないか?

そんな懸念もある。

 

もう一つ、今回称賛され、

たぶん受賞の一要因になったのは、

アメリカ・ハリウッドでは考えられない

低予算・少人数による制作体制。

どちらもケタ違いに安くて少ない。

 

これはもう日本映画のお家芸みたいなもので、

映画が量産されていた1950年代・60年代、

黒澤明や小津安二郎が活躍していた時代は、

コスパ、タイパに徹底的にこだわり、

1週間で1本とか、1か月で3本とかをあげるのは

ザラだったという。

巨大な予算と膨大な人数で映画作りを行い、

働く人たちの権利意識が強く、組合も強力で、

頻繁にデモやストライキなどをやる

ハリウッドでは到底考えられない作り方・働き方なのだ。

これもまた、資本・経営者に対する

日本の労働者の立場の弱さを表している。

と言ったら言い過ぎ?

もちろん、条件が悪い中で工夫して知恵を絞ることに

イノベーションが生まれるので、

いいことでもあるんだけど。

 

ただ、この働き方改革の時代に、

スタッフの健康やプライベートは大丈夫かとか、

それなりの額のギャラが

ちゃんと払われているだろうかとか、

会社の言いなりになっていないかとか、

ついついよけいなことを考えてしまう。

 

映画をはじめ、クリエイティブの現場は

労働基準法なんてあってなきもの、

みんな好きで、愛を込めて仕事やっているんだから、

夜中までかかろうが、休みがゼロだろうが文句なんかない。

といった世界だったはず。

気持ちがノッて、クリエイティブ魂が全開になって、

現場のテンションがグワーって盛り上がってきたところで、

「はい、6時になったんで今日はここでおしまい」

なんて言われたらドッチラケ。

昔の監督だったら「ふざけんな!」と怒鳴りまくるだろう。

と、僕は認識しているが、最近はそうした環境も

変わってきているのだろうか?

 

なんだかせっかくの受賞に

ケチをつけるようなことを書いたけど、

やっぱりこれは画期的な出来事。

ハリウッドの映画製作にも何か影響を与えるのだろうか?

ちょっと楽しみではある。

 


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イマイチ昭和世界の「ゴジラ-1.0」

 

「シン・ゴジラを超えた」と評価の高い

「ゴジラ-1.0」を見た。

時代設定が太平洋戦争末期から戦後間もない、

80年近く前の日本。

ここまで時間を戻してしまうということは、

ゴジラ映画のリセットを意図しているのか?

前作 庵野監督の「シン・ゴジラ」もそうだったが、

それとは真逆のベクトルのリセットだ。

以下、ネタバレありで。

 

戦争直後の東京の再現ということで

昭和レトロ世界構築の実績を持つ

「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎監督が出陣。

街の風景・環境の作り込みなどはよくできているが、

ストーリーが「ALWAYS」と違って、

シリアスでスケールが大きいせいもあり、

この時代の雰囲気づくりにはイマイチ感が漂う。

 

僕が時おり、

古い日本映画を見ているせいもあるのだろうけど、

そもそも俳優さんの顔つき・体つきが、

あの時代を生きていた人と現代を生きる人とでは、

同じ日本人でもずいぶん違うと感じる。

これはもうどうしようもない。

食い物もライフスタイルも80年前とはまったく違うのだから。

そこに難癖をつけるつもりはない。

 

しかし、補完する工夫はもっと必要ではないかと思う。

東京のど真ん中にゴジラが上陸して、

死傷者3万人という大惨事が起こったのに、

日本政府も、当時統治していたGHQも

まったく対策に関与しないのは、

どう考えても解せない。

元軍人たちの民間組織に丸投げするっていう設定は

無理があり過ぎだ。

 

「シン・ゴジラ」では政府の対ゴジラを描いたので、

今回はそれを避けたというのはわかるし、

台詞の中でもなぜ日本政府も米軍も出てこないかの説明は

一応ある。

けれども少しは政府高官なり、GHQの将校なりとの

やりとりのシーンが出てこないと

リアリティ不足は否めない。

 

もう一つ、ストーリーで不服だったのが、

主人公・敷島(神木隆之介)の描き方。

彼はもともと特攻隊員だが、冒頭シーン、

その任務から逃げて修理班のいる島に不時着し、

そこでまだ水爆実験の影響を受ける前のゴジラに遭遇する。

飛行機の機銃でゴジラを撃とうとするができず、

結果、修理班の人たちを見殺しにしてしまう。

 

なぜ敷島は特攻隊の任務から逃げたのか?

なぜ危機的状況でも機銃を撃てなかったのか?

何か重要なトラウマがあるのだろうと思ってみていたが、

どれだけ話が進んでもその説明は一切ない。

なので戦後、典子(浜辺美波)と出逢って

いっしょに暮らし始めてからも

イマイチ彼に感情移入できず、ドラマに深みが出ないのだ。

 

典子は戦災のせいで

自分の子ではない子供を育てることになったという設定。

それ自体は戦後の混乱を表現する要素で良いと思うが、

それだけで深掘りしていないので、

イマイチ設定が生きていない。

現代の日本人への

大事なメッセージを含んでいる気もするだけに

非常にもったいないなと感じる。

 

映像技術だけでなく、人間ドラマの部分も

高く評価されていると聞いていたので

期待していただけに、

こうした人物造形の粗さ・ドラマ作りの甘さが

よけい気になってしまった。

もっと丁寧に描いていたら

すごくクオリティアップしたのになー

と思うと、残念でならない。

 

ただ、僕にとっては欠陥に思えるそうした部分が

この映画をシンプルでわかりやすいものにしているので

アメリカでも受けているのかな、とも思う。

確かにこの脚本は、主人公が

「自分にとっての戦争」を終わらせるという

ゴールに向かって

様々な困難を克服していくという、

ハリウッドの黄金律に忠実なヒーロー物語になっている。

 

それに水爆実験の影響でゴジラが強大化したとか、

放射能を武器とした怪獣である点も

申し訳程度に説明しているだけで、ひどく印象が薄い。

もしやこういうところもアメリカに贖罪意識を抱かせず、

売り込むための忖度?

 

熱線発射の際に背中のヒレが青光りして

順番に立っていくところは、

「シン・エヴァンゲリオン」の

エヴァ2号機ビーストモードだし、

ラストの海中の覚醒シーンは、

1990年の「ゴジラVSキングギドラ」のまんま焼き直し。

そうしたイメージが連なってきて、

どうも原点回帰とか昭和レトロ世界観が伝わってこない。

 

と、ずいぶん難癖をつけてしまったが、

新世代向け、世界向けにリセットしたと考えると、

そのへんのことも

みんな成功要因になっているようにも思える。

 

思えば東宝は10年おきくらいに

ゴジラ映画の製作を諦めたり、

再開させたりを繰り返しているが、

やっぱりやれば客が入り、

一定の興行収入が見込めることを考えると

ゴジラ様を完全に引退させるわけにはいかないらしい。

 

これまでも何度かゴジラ映画限界説がささやかれたが、

そのたびに復活し、

「もう限界だと感じた時点がスタートだ!」を

実践してきた。

次はどんな切り口でゴジラを再生させるのか、

楽しみではある。

 


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母校 池袋の舞台芸術学院を訪ねる

 

昨日ふたたび池袋へ行く。

10日あまり前とは別の仕事の取材だが、

たまたま同じ池袋。

先月は雨天であまり街の写真が撮れなかったので、

少し早めに行ってスマホでウロウロ撮影作業。

 

劇場の話に合わせる写真がいるので、

西口にあるわが母校 舞台芸術学院にも足を運んでみた。

卒業したのはもう43年も前のことだ。

 

当然、校舎は改築されているが、

場所も道路を通し、区画整理した関係で

僕たちの通っていた頃より20mほど移動している。

 

創立されたのは1948(昭和23)年。

終戦からまだ3年目のことで、

このあたり一帯は焼け野原だったらしい。

 

ホームページを見て見たら、

こんな創立の物語があった。

https://www.bugei.ac.jp/about/school/

 

演劇を志したひとりの青年、野尻徹。

彼は幸運にも復員し、池袋で演劇活動の拠点、

「スタジオ・デ・ザール」を開設しました。

しかしその志半ば、彼は27歳でこの世を去ります。

彼の演劇への「思い」はここで潰えたようにみえました。

しかし、彼のあまりにも早い死を悲しんだ父、

与顕は息子の遺志継承を願います。

 

「地に落ちた一粒の麦、徹死して幾百幾千の

舞台人となって実るであろう事を」

 

1948年9月13日、与顕は焼け跡の残る

東京・池袋に演劇を渇望した息子、

徹の遺志を継ぐべく、私財を投じ、

若者が演劇に打ち込むための場

「舞台芸術学院」を創立しました。

 

(※以上、ホームページより抜粋)

 

初代学長である秋田雨雀、副学長である土方与志は、

日本の近代演劇史・文化史に名を遺す人なので

いちおう知っていたのだが、

真の創設者である野尻さん親子のことは

恥ずかしながらまったく知らなかった。

 

これは75年前、西口公園に闇市が群れをなし、

池袋全体がダークでカオスな街だった時代の話である。

(池袋のヤバさ加減は、小説・ドラマになった

「池袋ウェストゲートパーク」あたりまで引き継がれてた)

 

75年の歴史のなかで有名・無名かかわらず、

多くの演劇人、そして、そこに連なるハンパ者たちを

輩出している舞台芸術学院。

 

60年代の舞芸の学生が、南池袋の仙行寺と関わったことから

小劇場「シアターグリーン」が生まれ、

その活動が波及し、西口公園の

「東京芸術劇場」につながり、

その他、東口の「サンシャイン劇場」「あうるすぽっと」、

野外劇場「グローバルリングシアター」、

最近ではシネマコンプレックス、商業施設と一体化した

文化施設「HAREZA(ハレザ)」の一角を占める

「東京建物ブリリアホール」という劇場もできた。

 

百貨店・家電量販店・アニメショップなどの

印象が強い池袋だが、

いまや新宿・渋谷をしのぐ劇場が花咲く街である。

その最初の一粒がわが母校だったことに

改めて驚きと感動を覚えた。

 

在籍時を含めて45年間、創立の話を知らなかったのは、

ハンパ者卒業生の一人として、ほんとに恥ずかしい限り。

長い時間を要しないと、僕のようなボンクラには

世界が見えない、意味が分からない。

 

しかし、とりあえずこの母校と池袋の劇場の件については

死ぬ前に気付いてよかった。

自分の新しい歴史がまた新しく始まった気がする。

 


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映画「ロスト・キング」ーーリチャードⅢ世遺骨発掘の物語

 

何かを達成するのはクレイジーなエネルギーである。

フリッパ(離婚したシングルマザーの中年女性)は、

たまたま子どもの付きそいで

シェイクスピア作の「リチャードⅢ世」の舞台を見る。

それが彼女の人生を変えた。

 

リチャードⅢ世の霊が彼女にとりついた。

あの世からやってきたリチャードとの対話から

彼の遺骨が墓にも納められず埋もれ、

名誉を棄損されていることを知る。

そして8割方インスピレーションによって、

その遺骨の眠る場所を探り当てる。

 

こう書くと、荒唐無稽なオカルト映画、

あるいはインディー・ジョーンズのような

考古学者の冒険譚なのかと思うかもしれないが、

これは事実をもとに作られた映画である。

 

英国レスターにおいて

リチャードⅢ世の遺骨発掘が行われたのは、

わずか5年前。2,018年のこと。

 

国営放送BBCは、そのドキュメンタリーを作ったが、

それを劇映画化したもの。

脚色・演出はされているが、

ストーリー自体は事実そのもである。

 

主人公のフリッパは、

もともと考古学に縁もゆかりもないもない。

「リチャードⅢ世」は、知る人ぞ知る、

シェイクスピア劇の中でも屈指の人気を誇る作品だ。

 

リチャードがこの世を去って1世紀後、

シェイクスピアがその伝説をもとに造形したのが

せむしで醜く、心も歪み荒んだ極悪の王。

その残虐非道さ故、

英国歴代の正当な王とは認められていなかった。

 

しかし、リチャードの人柄と行為は、

彼のあとに政権を握った王朝が、

自らの正義を民衆に示すために捏造したものだった。

ちょうど明治政府が徳川幕府の政治を貶めたように。

江戸幕府の開幕時、

徳川家が豊臣家の影を消し去ったように。

 

フリッパはリチャード(の幻影)との対話と、

あくなき調査によってそのことを確信し、

遺棄された彼の遺骨のありかも突き止め、

孝行学者と大学を動かして発掘調査を行う。

 

あくまでドキュメンタリー風の作品なので、

ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、

面白く、妙に感動的な映画だ。

 

フリッパの行動の動機は、

世紀の発見をして歴史を覆してやろうといった

崇高な目的や野心のためでもなく、

もちろん一発当ててやろうという金儲けや

損得勘定のためでもない。

 

本当に霊に取りつかれてしまったか、

リチャードに恋をしてしまったか、

要ははた目から見たらめっちゃクレイジーな熱意なのだ。

それでも元夫や子供たちは彼女を応援し支える。

 

あくまでドキュメンタリー風の作品なので、

ドキドキハラハラみたいなエンタメ感は乏しいが、

そうした家族愛もあり、面白く、妙に感動的な映画だ。

 

そしてもう一つ。

彼女が自分の発想で、単独で始めたことを、

世紀の大発見という成果が得られると、

ちゃっかりその手柄を横取りし、

自分たちの栄誉にしてしまおうとする

大学や学者の在り方も、

リチャードを貶めた次期王朝権力と重なって面白い。

 

歴史は常にその時々の勝者・成功者・権力者が

つくってきたものである。

僕たちが英雄と信じている人が、

とんでもない悪人や詐欺師だったり、

悪漢や愚者だと思っていた人が、

実は英雄だったりすることもある。

インターネットが発達した世の中では

そうした驚くべきどんでん返しも起こり得る。

世界はまだまだ神秘にあふれ、

変化していく可能性を孕んでいる。

 

歴史が深く、多彩な物語が眠る英国だから作り得た

と思われるこの映画は、

そんなことまで考えさせてくれる。

 


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池袋のお寺と東京最古の小劇場

 

南池袋の仙行寺というお寺を取材する。

大樹を模したモダン建築の本堂ビル。

中には高さ6メートルの「池袋大仏」が鎮座。

 

隣は懐かしや、20代の頃、何度か通ったシアターグリーン。

渡辺えり子の劇団300、

三宅裕司のSET(スーパーエキセントリックシター)

などを輩出した小劇場だが、

ここは仙行寺が開設したもの。

お寺の劇場だったということを今回初めて知った。

 

先代住職がこの地に来たのは

終戦からまだ10年かそこらの時代。

池袋は闇市の街で、めっちゃ危険で汚く貧しく、

ヤクザ・愚連隊が夜な夜な跳梁跋扈する地域だった。

(僕が演劇学校に通っていた70年代末でも

その名残は色濃く感じられた)

 

当時、本堂もない貧乏寺だった仙行寺の先代住職は、

まず地域の環境をなんとかしないと

布教どころではないと考え、

隣の敷地に建てたアパートの集会室を

芝居の稽古場に、さらに設備を入れて

小劇場「池袋アートシアター」をオープン。

それがのちに「シアターグリーン」となり、

演劇をやる若者が集う場になった。

荒廃した池袋に文化のタネをまいたのである。

 

その後、池袋には西口の東京芸術劇場をはじめ、

様々な拠点ができ、

舞台芸術の花開く街に成長した。

 

20年近く前に改装して、複数の劇場を持つ

シアターコンプレックスになったシアターグリーンは、

日本で最も歴史ある小劇場として

リスペクトされている。

 

現・住職は改装後、支配人に就任。

演劇プロデューサーでもあり、

時代劇を描く脚本家でもある。

本人の話によれば、プロデューサーも脚本家も

お寺の活動の一環として自然にやっているという。

「じゃ、こんど若い坊さんだちを集めて、

ボーズ劇団をつくったらどうですか?」

と提案したら笑ってた。

 

仙行寺がやってきた地域活動・文化活動は

行政も高く評価しており、

仙行寺と劇場の並ぶ通りは

「シアターグリーン通り」と名付けられた。

 

僕が通っていた頃と比べても、

ごちゃごちゃしていたこのあたりの地域は

とてもきれいに整備され、

夜はエロくてヤバイ公園だった南池袋公園も

きれいな芝生の公園に生まれ変わっている。

 

 

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週末の懐メロ148:ウェルカム上海/吉田日出子

 

1979年、オンシアター自由劇場が上演した音楽劇

「上海バンスキング」のテーマ曲。

昭和10年代(1930年代後半から40年代前半)の

上海租界を舞台に、

享楽的に生きるジャズマンをめぐる物語で、

劇中演奏されるのはジャズのオールドナンバーだが、

オープニングとクロージングを飾るこの曲はオリジナル。

 

主人公のまどか役で歌手の吉田日出子は

小劇場界では名の知れた魅力的な女優だったが、

この芝居まで歌手としての経験はほとんどなかった。

 

また、ジャズマンたちも串田和美(シロー)や

笹野高史(バクマツ)をはじめ、楽器は素人同然。

 

にもかかわらず、演奏はノリにノってて素晴らしかった。

それはもちろん、この物語がとてつもなく面白く、

感動的だったからである。

 

僕は「上海バンスキング」の初演を見た。

当時、オンシアター自由劇場の拠点劇場は、

外苑東通りと六本木通り(首都高3号)とが交わる

六本木交差点からすぐ近くの雑居ビルの地下にあった。

 

キャパ100人の小さな劇場(というよりも芝居小屋)には

観客が溢れかえり、

広さ8畳程度の狭い舞台には、

主演級の他、楽器を携えた楽団員役を含め

20人を超えるキャストが出入りして熱演した。

あんな狭いところでいったいどうやっていたのか、

思い出すと不思議で仕方がない。

 

舞台となるのは、まどかとシロー夫妻の家の広間だが、

舞台セットなどは椅子とテーブルがあるだけ。

そこが突如ジャズクラブに変貌したりするシーン構成、

いろいろな登場人物が錯綜するストーリー展開、

そして時代が日中戦争、さらに太平洋戦争へ続いていく

ドラマの流れは、リアリズムをベースに、

時にファンタジーが入り混じり、

さらに歴史の残酷さを描き出す叙事詩にもなるという、

舞台劇の醍醐味に満ちていた。

 

ジャズと笑い・ユーモアに彩られながらも、

「上海バンスキング」はけっしてハッピーな物語ではない。

後半は戦争の暗雲が登場人物たちの人生を狂わせていき、

終盤、自由を、仲間を、そして音楽を失ったシローは、

アヘンに溺れ、やがて廃人になってしまう。

変わり果てた夫を抱きしめて、まどかは最後に

「この街には人を不幸にする夢が多過ぎた」と呟く。

 

ひどく苦い結末を迎える悲劇なのだが、

追憶の中、二人の心によみがえる「ウェルカム上海」は、

思わず踊りだしたくなるほど陽気で軽やか。

その楽しいスウィングは、

同時に哀しく美しい抒情に包まれる。

 

劇作家・斎藤憐はこの作品で

演劇界の芥川賞とされる岸田國士戯曲賞を受賞。

オンシアター自由劇場は

1979年の紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞。

 

再演するごとに人気は高まり、

キャパ100人の劇場は連日満員で客が入りきらなくなり、

やがて大きな劇場で何度も再演されることになる。

 

それまで演劇など見たことのなかった人たちでさえも

虜にし、1984年には、深作欣二監督、

松坂慶子・風間杜夫の主演で映画化。

20世紀の終わりまで上演され続ける

日本の演劇史に残る名作になった。

 

オールドファンとしては、

吉田日出子をはじめとするオリジナルキャストの

歌・演奏・演技はあまりにも印象的で忘れ難いが、

新しい若いキャストで今の時代に再演しても

ヒットするだろうと思う。

 

不幸のリスクを背負っても夢を求めるのか、

夢など見ずに幸福(というより不幸ではない状態)を

求めるのか、

いつの時代も、いくつになっても、

人生の悩みと迷いは変わらないのだ。

もう一度、舞台で「ウェルカム上海」を聴いてみたい。

 

夏休み無料キャンペーン第5弾

「ポップミュージックをこよなく愛した僕らの時代の妄想力」

8月20日(日)16時59分まで

 ポップミュージックが世界を覆った時代、ホームビデオもインターネットもなくたって、僕らはひたすら妄想力を駆使して音楽と向き合っていた。

 心の財産となったあの時代の夢と歌を考察する音楽エッセイ集。


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映画「ザリガニの鳴くところ」  陸と海との境界の物語

 

事件の真相は、初恋の中に沈んでいる――。

 

宣伝コピーがカッコいい「ザリガニの鳴くところ」は、

全世界で累計1500万部を売り上げた

ディーリア・オーエンズの同名小説の映画化。 

 

1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、

将来有望な金持ちの青年が変死体で見つかる。

殺人事件の容疑者として逮捕されたのは、

「湿地の少女」と呼ばれる孤児の女の子。

 

彼女を裁く陪審員裁判で事件の真相が明かされていく。

しかし、本当の真実が明かされるのは

それから半世紀のちの現代(映画のエピローグ)。

人生の結論はすぐには現れず、

目に見えないところに深く沈み、

思いがけない時に浮かび上がってくる。

 

原作小説は一昨年、読んでいた。

作者のオーエンズは動物学者で、

その知見をふんだんに活かし、

湿地の生態系について詳しく描写しており、

それと人間ドラマとがブレンドされて、

詩的でスケールの大きな物語になっている。

 

湿地という土地自体がミステリアスで、

様々な暗喩に満ちており、

人間の心のなかの世界を表現しているかのようだ。

 

ただ、ミステリー映画という頭で見ると、

正直、論理的に甘い部分が気になるかもしれない。

冒頭の宣伝コピーも

実際の内容とはちょっとズレてる感じが否めない。

 

映画化に際してストーリーは単純化され、

殺人事件の真相解明に焦点が絞られているが、

アメリカ社会に深く根を張った

児童虐待・家庭崩壊の問題も

もっと突っ込んで描いてよかった気がする。

 

アマプラで見た(今でも見られる)が、

陸と海との境界となっている雄大な湿地帯の風景と、

そこで暮らす人々のライフスタイルは、

映画館のスクリーンサイズで見たかった、という印象。

 

その映像をバックにしたプロローグとエピローグの

ナレーションもしびれるほど詩的でイマジネーティブ。

「ザリガニの鳴くところ」というタイトルの意味も分かる。

 

そして、ラブシーンがいい。

ドラマの文脈、映像の美しさ。

若い俳優さんがあまり美男美女過ぎないのもいい。

こんなきれいなラブシーンは久しぶりに見た気がして、

年甲斐もなく、ムズムズソワソワしてしまった。

 

夏休み無料キャンペーン 第4弾

ちち、ちぢむ 

8月18日(金)15時59分まで

 

 ろくでなしだけど大好きなお父さんが

「ちっちゃいおじさん」に!

 人新世(アンドロポセン)の時代を生きるアベコベ親子の奇々怪々でユーモラスな冒険と再起の物語


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週末の懐メロ147:愛のコリーダ/クインシー・ジョーンズ

 

今日もディスコ!ダンスダンスダンス!

マイケル・ジャクソンのプロデューサーとしても

おなじみのクインシー・ジョーンズ、

1981年リリースの大フィーバー曲。

 

ちなみに歌っているのはデューン(チャールズ・メイ)と

パティ・オースティンという人で、

クインシー・ジョーンズはドピンクのシャツを着て

ウロウロしている黒人のおっさんです。

 

この曲、つい昨日までジョーンズのオリジナルだと思っていたが、

実はチャズ・ジャンケルという歌手が

前年に出した曲のカバーだった。

しかも、もと歌もそんなに変わらないディスコビート。

 

それでもこの頃、すでに巨匠だった

クインシー・ジョーンズが取り上げ、

世界中のディスコで響きわたり、

若者たちが踊りまくったことで、

すっかりこのバージョンが定着してしまった。

 

戦前生まれ(1933)のクインシー・ジョーンズは、

ジャズミュージシャン、アレンジャーとして、

60年代前半から音楽業界で大活躍。

マイルス・デイヴィスやフランク・シナトラらの

プロデュースを手がけたり、

映画やテレビドラマのサントラも多数つくっている。

 

そして80年代以降はソウル系ポップ・ロックの

大ボスとしてマイケル・ジャクソンはじめ、

世界のスターミュージシャンらに多大な影響を及ぼした。

 

「愛のコリーダ」というタイトルは、

邦題ではなく、オリジナルのまんま。

1976年に大島渚監督が発表した映画から

いただいたものだ。

 

大島渚の最も有名な代表作は

1983年の「戦場のメリークリスマス」だが、

戦メリ以前の大島監督の代名詞と言えば、

初の海外進出作で、カンヌ国際映画祭で賞を取った

「愛のコリーダ」だった。

 

同作は戦前の日本社会を騒然とさせたエロ猟奇殺人事件

「阿部定」を題材とした問題作だが、

歌の方はべつに映画の内容とは関係ない。

(猟奇殺人の歌で踊ってたら、やっぱヤバい)

 

強いて言えば「究極の愛」について歌っているから

同じ題名にしたのか。

「愛」は日本語、

「コリーダ」はスペイン語で「闘牛」の意味だから、

アメリカ人にとってはエキゾチックなムードが

出せるのだろう。

愛し合い、いっしょに踊る男女を

闘牛と闘牛士に見立てたのかもしれない。

 

かつてのディスコミュージックの帝王は、

90歳になる今も健在で、

元気に音楽活動を続けているようだ。

グレート。

 

 

親子で読もう!夏休み無料キャンペーン

オナラよ永遠に

8月12日(土)15時59分まで

 

 

一発の小さなオナラから巻き起こる

愛と笑いと冒険のSFファンタジー。


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幸福を追求して人間を改造する「シン・仮面ライダー」

 

アマプラで「シン・仮面ライダー」を見た。

すごいなと思ったのは、敵であるショッカーの設定。

悪の組織であるはずのショッカーは、

なんとこの作品では「人間の幸福を追求する組織」である。

 

フルネームだと「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」。

「計画的知識を埋め込んで改造した持続可能な幸福の組織」

とでも訳せばいいのか。

 

それぞれの頭文字をつなげて「SHOCKER」。

もちろん、これは庵野監督の創作である。

怪人(改造人間)のモチーフが昆虫であるところを

考え合わせると、地球環境との調和も追求しているようだ。

 

当然、この幸福の追求は、

一般社会で生活する人間にとっては

歪んだおぞましいものだが、

主人公の仮面ライダー・本郷猛も、

ラスボスであるショッカーの首領も、

不条理な無差別殺人事件によって父や母を奪われた遺族である。

 

彼らの立場になって考えていくと、

つまり見方を変えると、ショッカーが目指すものこそ

正義と捉えてみてもおかしくない。

 

もちろん、本当のご遺族の方が

こうした考えを持つようになるということではないが、

原典の「仮面ライダー」が持つテーマ性を深堀りして、

現代に新たな世界観を築き上げた

庵野秀明監督の想像力・創造力はやはり尊敬に値する。

 

ゴジラやウルトラマンと違って、

仮面ライダーは等身大のヒーローであり、

この話は、僕たちの人生とごく身近な、

家族・友人・その周りの社会をめぐる物語とも言える。

1号・本郷猛と2号・一文字隼人との

人間関係・信頼関係の成り立ちも良い。

 

登場人物の中ではヒロインのルリ子がとてもよかった。

演じているのは、今やっている朝ドラのヒロイン役

(牧野博士の妻)の浜辺美波。

狂言回しのような役柄で、

彼女のセリフと行動によって

この話の世界観・構造が語られていくのだが、

彼女と彼女に対する本郷の愛あっての

「シン・仮面ライダー」という感じがする。

 

僕はテレビの「仮面ライダー」が始まった頃、

すでに小学校の高学年だったので、

やや冷めた目で見ていて、

初期シリーズ(1号・本郷猛のシリーズ)を

半分ほど見ただけだ。

ウルトラシリーズと違ってほとんど思い入れがないので、

今回も期待せず、事前情報もほとんど仕入れていなかった。

結局、劇場に行かず、アマプラで見てしまったのだが、

すばらしかった。

「幸福のために人間を改造する」というテーマのもとで

これだけの物語を作り得るのはすごいことだ。

 

「仮面ライダー」なんて知らない・興味ないという人も

ぜひ観て見るといいのでは、と思う。

 


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過去と未来のマンガ文法・映画文法

 

子どもの頃、マンガが好きで、

小学生まで暇があればマンガを描いていた。

しかしどうしてだか、

登場人物の顔がことごとく左向きになってしまっていた。

左向きの顔はすらすら描けるのだが、

右向きの顔がうまく描けないのである。

 

あとから知ったことだが、マンガにおいて

左向きは未来を見る顔、

先に進もうとする気持ちが現れた顔。

 

右向きは過去に向かう顔、

止まったり振り返ったりするサインだという。

 

「さあ行こうぜ」と言う時は左向き。

「ちょっと待てよ」と言う時は右向きというわけ。

 

これは日本のマンガが右から左へとページを

めくっていくことと関連している。

マンガ家自身にそういう生理感が身についており、

この右向き・左向きの心のベクトルが

一種の「マンガ文法」になっている。

 

これは映画も同じで、画面で左を向いたら未来を見ている、

右を向いたら過去を見ている表現だという。

 

欧米には日本のようなマンガ文化はないが、

映画の場合は、演劇の生理に基づいていると思われる。

登場人物が上手(観客から向かって右)から

下手(同・左)へ動く時は未来へ向かう、

逆の場合は過去に向かうというのが基本形。

これは人間の脳のメカニズムと関連しているのだと思う。

 

自分の話に戻すと、

子どもの頃は過去時間の分量が少なかったから

右向きの顔が描けなかったのだろうか?

 

けれども今でもちょっと落書きで人間を書くと、

手が覚えているのか、正面でないときは、

無意識に左向きの顔を描いている。

いずれにしてもこのマンガ文法・映画文法を意識して

マンガや映画を観ると面白い。

 


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サスペンスフルな認知症映画「ファーザー」

 

一昨年公開されたアンソニー・ホプキンス主演の

映画「ファーザー」は、認知症患者の視点で描かれている。

観客を混乱に陥れるような

ミステリアスでサスペンスフルな展開。

しかしその実、認知症患者と介護の現実を突きつける

ドキュメンタリータッチの映画でもある。

 

もともとは舞台劇で、舞台はロンドン。

派手なシーン展開は一切なく、

ドラマはほとんど家の中で進む。

それでも1時間半、画面から目が離せない。

目の前で何が起っていくのか、

ひとつひとつを固唾を飲んで見守らざるを得なくなる。

 

無駄なものを一切そぎ落としたシャープな演出と構成。

そして何よりもアンソニー・ホプキンスの圧倒的な演技力。

嘘っぽさがみじんもないリアルの極致。

こんなふうに認知症患者を演じられる役者が他にいるのか。

 

そして、その行く先は、やはり辛くて悲しい。

広告では「感動」と謳っているが、

いや、多くの人はそれよりも

言いようのない不安と怖さに晒されるのではないか。

そういう映画だと思う。

 

けれども認知症が蔓延していくこれからの社会、

現実と向き合いたくない人、逃げ出したい人も、

せめてこの映画で認知症のことを知ってほしい。

 

2021年アカデミー賞・主演男優賞と脚本賞。

現在、アマゾンプライム見放題で視聴可能。

 

 

認知症について学ぶ。

認知症から学ぶ。

認知症介護の日々を綴った

おりべまことの面白エッセイ集。

専門医の解説も併載。

「認知症のおかあさんといっしょ」

https://www.amazon.co.jp/dp/B0BR8B8NXF ¥500

 


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週末の懐メロ111:レット・イット・ゴー/ピアノ・ガイズ

 

言わずと知れたディズニーのアニメ映画

「アナと雪の女王」の主題歌。

 

「レリゴー」が

懐メロと言えるかどうかは微妙なところだが、

2013年のリリースから早や10年近く。

その人気度・浸透度、そして50年後も聴き継がれ、

歌い継がれるであろう、楽曲のクオリティの高さは、

もはや立派に名曲として殿堂入りしていると思う。

映画のサントラとしても最高峰の一曲ではないか。

 

美しさと疾走感を併せ持つメロディラインは、

吹雪の中で覚醒したエルサが雪の女王に変貌し、

瞬く間に氷の宮殿を築き上げるシーンと相まって

何度聴いても胸が熱くなる。

 

作詞・作曲は、ブロードウェイの舞台や、

映画・テレビの音楽を数多く手がけている

クリスティン・アンダーソン=ロペスと

ロバート・ロペスの夫妻。

 

制作の裏話では、出来上がってきたこの曲を聴いて

衝撃を受けたスタッフが、

ストーリーも、エルサとアナのキャラクターも

それまで作ってきたものを一掃して書き替えたという。

(エルサは当初、芯から冷酷で戦闘的な

氷の女王という悪役だったらしい)

まさに新たな作品世界の礎となるだけの

エネルギーを持った楽曲だ。

 

オリジナルの歌唱は、声優としてエルサを演じた

アメリカ人女優で歌手のイディナ・メンゼルだが、

公開されるやいなや、

世界中で数えきれないほどのアーティストが魅了され、

この名曲をカバーしている。

 

なかでも僕が好きで、冬になるといつも聴いているのが、

何もない雪原で、エルサとアナとは似ても似つかぬ

二人のおっさんが、真っ白なピアノとチェロで奏でる

インストゥルメンタル。

 

間奏とエンディングにビバルディの「四季・冬」を

絡めた超絶パフォーマンスは驚愕に値し、

テンションが上がりまくる。

 

「ピアノ・ガイズ」は、出演のピアニスト、チェリスト、

映像クリエイター、音楽プロデューサーからなるチームで、

映画音楽、クラシックを融合リアレンジし、

映像をネット上に公開。

美しい大自然の中でユーモアを交えて繰り広げられる

演奏・映像が話題を呼んでいる。

 

冷たい風が吹きすさぶ中、情熱をこめて、

この上なく楽しそうに演奏する姿は、

映画の世界をそのまま拡張したかのような

「レット・イット・ゴー」のアナザーワールドを

見事に表現している。

 

そして、凍えるような季節がやってきても、
僕たちも熱く楽しく、愛を持って
毎日を生きたいと思わせてくれる。

 

 


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シン・ウルトラマンとイデ隊員とウルトラマンの本質

 

「僕が作った武器なんて何の役にも立たないんだ。

怪獣はみんなウルトラマンが倒してくれるんだから」

 

無力感に苛まれたイデ隊員は、戦うことを放棄して

空に向かって声を振り絞ってウルトラマンを呼んだ。

 

「ウルトラマーン、早く来てくれ。

ウルトラマーン!」

 

ウルトラマンであるハヤタ隊員はその姿を見て、

変身するのを躊躇ってしまう。

 

初代ウルトラマンの第37話「小さな英雄」は、

子ども心に全エピソード中、最も感動的な話だった。

じつはこの回の主役は怪獣ピグモンなのだが、

僕の中では完全にイデ隊員が主役だった。

 

イデ隊員は第23話「故郷は地球」でも主役だった。

辺境の惑星で怪獣になってしまった宇宙飛行士ジャミラは

人間に復讐するために地球に帰って来た。

科学特捜隊は、彼の正体を隠したまま、

抹殺しろと命令を受ける。

破壊を繰り返すジャミラにイデ隊員は悲痛な叫びをあげる。

「ジャミラ、おまえは人間の心さえ失くしてしまったのか!」

 

昨年亡くなった二瓶正也さん演じるイデ隊員は、

科学特捜隊の兵器やマシンを開発する天才科学者でもある。

しかし、○○博士といった威厳ある趣はみじんもなく、

ヒラ隊員に甘んじており、

普段はひょうひょうとした3枚目キャラだ。

 

けれども彼のシリアスでヒューマンな面を印象づけた

この2つのエピソードが

「ウルトラマン」のトーンを決めた。

イデ隊員が表現する人間性こそが

「ウルトラマン」の本質なのである。

当時、僕は6歳だったが、

子どもの胸に入り込んだものは、

とてもとても信じるに値する。

 

「シン・ウルトラマン」は劇場で一度見たが、

配信が始まったので昨日、家でもう一度見た。

ここには、かつてのウルトラマンという物語の

エッセンスが凝縮されている。

 

細部にわたる庵野監督の仕掛けはさすがだと思う。

旧作へのオマージュもふんだんに盛り込まれている。

さらに現代社会への風刺も。

 

世界は核兵器による脅し合いで成立している。

核に代わるパワー、核を凌駕するパワーを

どの国も求めていることが、

登場人物のセリフから伝わってくる。

 

ウルトラマンの軍事利用。

ベータシステムの政治利用。

メフィラスとの交渉シーンでは、

そのあたりが実にうまく表現されている。

メフィラスを演じる山本耕史は最高だ。

 

そうした現代ならではの要素

(実は55年前と大して変わっていないけど)を

盛り込みつつ、ちゃんと本質を抑えている。

 

「シン・ウルトラマン」を観ていて

僕にイデ隊員を想起させたのは、

有岡大貴が演じる禍特対(禍威獣特設対策室専従班)の

滝明久である。

滝は粒子物理学者で、かなりの天才らしいが、

メンバー中最年少の若僧。

 

劇中、けっこう生意気な口を叩くが、

最後のゼットン登場によって、

「小さな英雄」のイデと同じく、

深い無力感と絶望感に苛まれる。

 

「ウルトラマンも勝てない相手だ。

もう人間はおしまいなんだ」

彼には少しエヴァのシンジくんも入っているようだ。

 

けれども滝もまた、あの時のイデ隊員と同じく、

奮起し、自分のできることをする

(それがすごいんだけど)。

 

人間がアホで能なしで臆病で、

しょーもないゼツボー的生き物であることは

わかっているけど、そんな現実に

めげてないで一生懸命やるしかないのである。

一生懸命やってれば、いつかどこかで

ウルトラマンも助けてくれるかもしれない。

一口で言えば、

それがウルトラマンという物語のメッセージだ。

 

ウルトラシリーズで最も評価されているのは

「ウルトラセブン」だと思う。

確かにセブンは引き締まったシリアスな展開で、

おとなっぽくてドラマとしての質も高い。

 

それに対して「ウルトラマン」は

メルヘンあり、コメディあり、ホラーあり、

ファンタジーありの子どもっぽいバラエティだ。

(前作の「ウルトラQ」の世界を引き継いでいる)

 

おそらく初めて観た時の年齢が関係していると思うが、

僕は子どもこ心に訴える、

柔らかで広がりのあるコンテンツとして、

戦闘的なウルトラセブン

(およびその後のシリーズの各作)よりも

ウルトラマンのやさしいヒューマンな物語が

好きなのである。

 

ただ、おとなになった今、原本のウルトラマンは、

さすがに稚拙さ・子どもっぽさが目立って

まともには見られない。

 

今回の「シン・ウルトラマン」は、

2時間の重厚でリズム感あふれるドラマに仕立て上げて

その真髄を見せてくれた。

ラストもキレがあり、シャレが効いている。

 

願わくば「故郷は地球」のエピソードを活かしてもう1作。

最終兵器のゼットンを出しちゃったから無理かと思うけど。

 


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小説を読むように楽しむ映画「ドライブ・マイ・カー」

 

脚本もセリフも素晴らしい。

それを3日かけて観た。

1日1幕ずつの3幕劇。

村上春樹の小説を濱口竜介監督が映画化した。

昨年のカンヌ国際映画祭脚本賞、

今年のアカデミー賞国際長編映画賞など、

世界的に評価された作品。

 

第1幕、序盤のハイライトは濡れ場。

こちらの世界とあちらの世界へ、

ファンタジー要素のない、リアルベースの物語なら、

日常のマテリアルな世界から、

内面のマインドな世界へぬけるために、

セックスをトンネルとかブリッジに使うのは、

村上春樹の常套手段だが、

それを映像化すると、こんなにエロくなるのかと

ちょっと驚いた。女優さんが上手だ。

 

第2幕は演劇の世界。

主人公が演出家なので、演劇のシーンが多いのだが、

その空気感もビンビン伝わって来た。

すごく久しぶりにチェーホフの戯曲に触れた。

若い頃はチェーホフなんて退屈で嫌いだったのだが、

いま観ると面白そうだ。

 

韓国の俳優さんたちがいい味を出している。

舞台が広島というのもいい。

そういえば、瀬戸内にはもう何十年も行ってない。

 

第3幕はロードムービー。

広島から北海道へ、タイトル通りドライブ・マイ・カー。

クライマックス。

主人公とドライバーの女の子のセリフが胸を打つ。

 

でも、すごく感動!という映画ではない。

てか、やたら淡々とした地味な映画だ。

しかもその割に長い。

なんと3時間近くもある。

それもあって1日では見られず、3日かけて観たのだ。

でも、そのおかげですごく心に染みる映画として見られた。

 

べつにこれは皮肉ではない。

本を読むように、ページを見返しながら、

ちょっと戻し戻し見ながら、

1シーン、1シーンを噛み締めながら楽しむ。

 

正直、映画館で見たら途中で寝てしまって、

「なんだか地味で、よくわからなくて退屈だった」

あるいは

「序盤の濡れ場だけがやたら印象に残った」

という感想しか抱かなかっただろう。

 

今はネット配信で、何日でもかけて、

いくらでも止めながら観られる。

今までの映画の見方からすれば、

そんなの邪道なのかもしれないけど、

そのほうがいい作品もあると思う。

 

今だとAmazonPrimeの見放題で見られます。

良い映画なんでおすすめです。

もちろんイッキに見てもいいし、

1週間かけてちびちび見るのも良し。

 


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「あとしまつ」の時代を生きる

 

「大怪獣のあとしまつ」という映画が先週から公開されている。

最初に概要を見たとき、

すげえ題材に目を付けたな、と思った。

 

ヒーローが大怪獣を倒すが、

死体は消えてなくなるわけではない。

人間があとしまつをつけなくてはならない。

その顛末・奮闘劇を面白おかしく描く。

 

これはおいしい。

今まで誰もこんな話は作っていない。

それをこの令和4年にやる、というところにビビッときた。

 

「大怪獣」とは一種のメタファー(暗喩)である。

自分でもいろいろ書いているが、今やネット上には

昭和の振り返り情報――

政治や企業の栄枯盛衰から怪事件、怪人物、怪商品、

映画、音楽、マンガ、テレビ、アニメ、特撮、

芸能人あyスポーツ選手のスキャンダルなど

ーーがあふれかえっている。

 

大怪獣とは、後世に様々な影響を残した

戦後昭和という強烈な変動期のことであり、

終わって30年以上たった今、

僕たちは懐かしい、あの頃に帰りたいと

ブツブツつぶやきながら、

そのあとしまつに勤しんでいる、というわけだ。

なんだか残された家族が遺品整理をしているようである。

 

また、大怪獣とは災厄・災禍のメタファーでもある。

初代ゴジラが核兵器の化身だったように、

庵野監督のシン・ゴジラが東日本大震災の

イメージをまっとていたように、

人間が太刀打ちできない圧倒的なパワーの象徴として現れる。

 

なんとかそれを乗り切って生き延びても

そのあとしまつがまた大変だ。

東日本大震災ももう11年が経とうとしているのに、

原発の問題を始め、多くの傷跡が治療もされずに

置きざりにされたままだ。

 

そして今ならコロナ禍である。

オミクロンがピークアウトすれば、

コロナ禍は終わるかもしれないが、

喜んでばかりはいられない。

 

今度はコロナ禍で混乱し、取っ散らかってしまった社会の

後始末をどうつけるか、が大問題になるだろう。

これがけっこう心配だ。

いろんなところに想像もできないような歪が起き、

物理的な面・精神的な面、双方で

僕たちは何年も後始末に明け暮れるのではないか、

という気がする。

 

てなことをいろいろ考えて、「大怪獣のあとしまつ」、

そんなメタファーがふんだんに盛り込まれた、

それでいながら笑えるという、

すごい映画なのではないかと期待していたが、

ネットでチラ見してしまった評判は、あまり芳しくない。

 

あれこれ妄想を膨らませて夢を描いているだけのほうが

いい気がしてきた。

 


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こぐま座 再生目指してトラックコンサート

 

先日トラックが盗難事故に遭った

こぐま座のコンサートがYouTubeにUPされている。

 

彼らのレパートリー

「三匹のこぶた」「ももたろう」「ピノッキオ」などの

主題歌メドレー、

および、この劇団のスーパーアイドル、

ファンキーなラッパーゴリラ・ゴンタの

パフォーマンスが見られる。

 

 1月18日、盗難されたトラックが帰ってきたけど、

自走が困難になってしまったため、

廃車することになったそうだ。

それで、日本全国を幾度となく旅して回った

トラックの最後の思い出として

荷台ステージでのコンサートとなったようだ。

 

皆さん、新しいトラックで活動再開したら、

子どもや孫を連れて観に行ってみてください。

こぐま座の人形劇は、日本の偉大な文化の一つです。

もちろん、おとながひとりでブラっと行って

童心を取り戻してもええんでないかい?

 


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フランケンシュタインの母

 

メアリー・シェリーは「フランケンシュタイン」の

作者である。

そのメアリー・シェリーを描いた映画が

2017年に公開されていたのを知って、

例によってAmazonPrimeで観た。

 

「メアリーの総て」という邦題は

わかりやすいけど、イケてない。

もうちょっと気の利いたタイトルは

付けられなかったのかと思う。

 

今や知らない人はいない人造人間フランケンシュタイン。

正確にはフランケンシュタイン博士が

死体をつなぎ合わせて作った怪物。

 

その原作小説を書いたのは女性で、

「シェリー夫人」という人だーーということは

子どもの頃、読んだ雑誌で知っていた。

 

そのシェリー夫人という名前から、

僕は長年、妙齢の有閑マダムだと思っていた。

 

その雑誌にもイラストで40歳か50歳くらいの

金持ちそうなおばさんが描かれており、

「すごく怖い夢を見たの。この夢をもとに小説を書くわ」

といったセリフが付いていた。

 

さらに

「こうしてフランケンシュタインは誕生したのですーー」

といった解説がついていた。

おそらくその雑誌のライターも

シェリー夫人については何も知らなかったのだろう。

 

実際のシェリー夫人=メアリー・シェリーは、

もとは19世紀ロンドンの本屋の娘で、

両親がちょっと名を知られた思想家だったようだ。

そのためか、彼女にも文学的才能があり、

若い頃から怪奇小説を書きたがっていた

というベースがある。

 

そして彼女はフランケンシュタインの物語を書いたのは、

まだ18歳の時。

出産も経験していたものの、まだ少女と言っても

おかしくない齢だった。

執筆時、のちに夫となる詩人パーシー・シェリーとは

まだ正式に婚姻関係を結んでいなかった。

 

「フランケンシュタイン」をSFの元祖、

ロボット小説の元祖と見る向きもあるが、

メアリー・シェリーは科学に興味を持っていたものの、

科学的知識、理系のセンスはほとんどない。

 

フランケンシュタインの物語は、

あくまで当時、19世紀・大英帝国時代の

イギリス・ヨーロッパにおける思想・哲学・文学の

水脈から生まれてきたものだ。

 

そこには現代よりもずっと厳しい道徳性や保守思想、

それに反発する自由への希求、美への憧れ、

理想主義などが渦巻いている。

 

映画ではなぜ若い彼女があの物語を生んだのか、

ただのひらめきだけでなく、その背景にどんな事実があり、

どんな心の動きがあったのかを丁寧に描いていて、

僕にはとても興味深かった。

 

ただし、「フランケンシュタイン」からイメージする

ホラー要素を期待して観るととがっかりする。

画面に怪物は一切出てこない。

 

しかし、怪物なるものの正体は、

ストーリーの中でとても分かりやすく描かれている。

ジャンル分けをするなら、

ヒューマンとか恋愛映画に入るのかな?

 

フランケンシュタインの物語は、

おそらくこの先も半永久的な生命力を保つと思うが、

実は僕も原作は読んだことがないので、

こんどしっかり読んでみようと思う。

 


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週末の懐メロ56:ホワット・ア・フィーリン/アイリーン・キャラ

 

1983年。

アイリーン・キャラは、自分も出演してしていた

映画「フェーム」(1980年)と

この「フラッシュダンス」で。

続けざまに主題歌をヒットさせ、大スターになった。

 

この曲が流れてくるとともに、自転車に乗った主人公が

朝焼けの街を疾駆する「フラッシュダンス」の冒頭3分は、

これまでに観た映画の中で、最も希望に溢れた

オープニングシーンだ。

 

みどころは、もちろんダンスシーンなのだが、

僕はそれ以上に、ジェニファー・ビールス演じる

主人公アレックスの、昼間はガテンな溶接工、

夜はセクシーバーで金を稼ぐ、という

大都会で夢を追いながら生きる

タフなサバイバーぶりが好きだった。

 

夢見る少女ダンサーの物語に

こんな設定を加えて映画にすることができたのは、

やはり女性が自由にふるまえるようになり、

ライフスタイルが変わった80年代だったからではないかと思う。

 

今では女性も当たり前にガテンな仕事をするようになったが、

この頃の日本じゃ工場や倉庫や建築現場で

若い女の子が働くなんて、とても考えられなかった。

アメリカだって女性溶接工なんて、

まだそんなにいなかったと思う。

 

それでいてアレックスは可愛い女の子で、

自分の夢にまっすぐで、

ちょっとエッチなところもあって、

成功に向かってがんばって、

予定調和的なシンデレラストーリーを

実現させちゃう。

 

なんだかおいしところてんこ盛りで、

斬新でありながら、意外と古典的なヒロインの、

今考えるとよくできた話だった。

 

時代は変わっても、齢を取っても

やっぱり自然と希望が胸に溢れ出してくるような

音楽と映画に親しんでいたい。

 


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凶悪・孤狼・凪待ち:白石和彌監督の映画が面白い

 

白石和彌監督の映画を立て続けに3本観た。

「凶悪」「孤狼の血」「凪待ち」

どれもめちゃ面白い。

面白いが、人間やってるのが怖くなるような映画だ。

 

いちばん凄いのは「凶悪」で、

実際にあった連続殺人事件を題材に作られた。

本当にこんなひどい奴らがいたのかと思わせる、

本当にひどい内容・ひどい事件である。

 

「孤狼の血」も凄まじい暴力描写があるヤクザ映画だが、

役所広司・松坂桃季といったスターが主演しているのと、

昭和ヤクザの世界を舞台にしている分、

現代の日常からやや離れたものとして見えるので、

少し安心して観ていられる。

 

「凶悪」の怖さはやっぱりリアルなドキュメンタリーっぽいところか。

狂気のような人殺しをした連中が

時間と場所によって、ごく自然にスイッチを切り替えて

普通の人間に戻ってしまう。

 

まったく平和な日常生活そのままに

飯を食ったり、子どもに対しては

やさしい父親になってしまう。

 

頭からケツまで冷血非道な人間かと思いきや、

妙にあったかかったり、

可愛いところ・愛すべきところがあったりもする。

 

仕事術や勉強術を伝授するような本の中で

よく「なんでも習慣化すれば身に着く」

といったことを説いているが、

あれとまったく同じで、

人間、慣れれば人殺しも死体遺棄も普通に出来てしまう。

それで心が揺らぐこともない。

 

そんなのは特殊な人間だろ、と思うかもしれないが、

僕らだってきっとそうなれる。

それもわりと簡単に。

 

人殺しとかするやつは、

頭からケツまで冷血非道な人間かと思いきや、

妙にあったかかったり、

可愛いところ・愛すべきところがあったりもするのだ。

 

だから誰の心の中にも、こいつらと同じ「凶悪」がある、

じつはいい人も悪い人も、ほとんど違いなどなくて、

光の部分と闇の部分が交互に現れるだけ。

 

たまたま人生のどこかのタイミングで、

闇の部分がぱーっと広がると、

アッと言う間に人間丸ごとそれに支配されてしまう。

 

「凶悪」でおそるべき殺人首謀者だった

リリー・フランキーが、

「凪待ち」では、おそるべき“いい人”になるが、

彼がそれを証明しているかのようだ。

 

しかし、リリー・フランキー、

改めてすごい俳優だなと思う。

見た目軽くて、全然すごそうでないところがすごい。

 

さらに言うと、これらの作品の登場人物の特徴は、

およそ論理とはかけ離れた、不可解な行動をとる。

 

不条理とかシュールといった文学的な表現も

なんだか似合わない、もっと地を這うような感覚のもの。

ひどく奇妙でありながら、やたらとリアリティがあるのだ。

「人間はどうしてこういう行動を取るのか」

も白石映画の面白さの一つになっている。

 

撮影現場でのひらめきや俳優のアドリブなどが

たくさん含まれていると思うが、

それ以前の脚本の段階で、

こうした人物造型とストーリーを構築できるのが

素晴らしいと思う。

 

それにしても、映画の中でのたうち回る

犯罪者・ヤクザ・労働者・ギャンブル中毒者・

カネの亡者・借金地獄の人たちを見ていると、

明日、自分もこういう世界に

巻き込まれているんじゃないかと感じて

心底身震いがしてくる。

 


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どうして人は地球滅亡・人類滅亡の物語を創り続けるのか?

 

コロナで人類が滅亡すると思っている人は

ほとんどいないが、この先のことはわからない。

変異を繰り返して、

おそるべき大量殺戮ウイルスにならないとも限らない。

 

でも、そうしたら世界中の人々は

現在のように分断された状況ではなく、

心を一つにして「人類の敵」に立ち向かっていくだろう。

 

そんなことを考え出したのは、

そう言えばここ最近、

地球滅亡・人類滅亡系の映画を観ていないなぁと

ふと思ったからである。

 

最後に観たのは「アルマゲドン」だったか。

ということは、

21世紀になってからほとんど観ていないのか?

 

小説やマンガはどうか?

「寄生獣」などは人類滅亡系のカテゴリーに

 入らなくはない。

 

「エヴァンゲリオン」は?

20世紀の旧作(旧劇場版)はそのニュアンスが強かった。

しかし、新劇場版になると、心の問題にすり替わった。

 

「地球滅亡・人類滅亡は、あなた自身の心の問題です」

というわけだ。

 

キリスト教瀬世界では「ノアの箱舟」など、

地球滅亡・人類滅亡は

大昔から語り継がれてきた一大テーマである。

そこから救世主・英雄の物語が展開した。

 

20世紀後半以降、それが現代科学の発展、

核兵器の開発などと結びついて、

SF分野で地球滅亡・人類滅亡の物語が

量産されるようになった。

 

また、僕らの世代の日本人は

「ノストラダムスの大予言」に当たってしまったので、

「地球滅亡・人類滅亡」に脳のコア部分が侵食されている。

 

僕はこの20年余り、さすがに食傷して、

あんまりその手の物語を楽しめなくなっていたが、

相変わらず滅亡映画は創られ続け、

どれもそこそこヒットしているようである。

 

観客がいなければ映画なんて作らないので、

やはり安定した需要があると考えられる。

 

そして、なんでそんなに需要があるのか?と考えると、

答は割と簡単で、先進国社会はおしなべて、

この先、人口が減っていくからである。

 

先進諸国の人口はピークアウトしている。

ピークアウトしているからこそ先進国であり、

豊かな経済・豊かな生活を実現していると言ってもいい。

 

ということは極論すると、

いずれは日本なら日本人がいなくなり、

人類が地球からいなくなるということだ。

 

もちろんそれは遠い遠い未来の話で、

僕たちや、僕たちの子どもや孫の時代に

起こることではない。

けれどもどれほど先かはわからないけど、

確実にそれはやってくる。

 

現代の人間と同じ新人類が地球に出てきたのが、

およそ20万年前だというから、

それくらいのスパンで人類は消滅するとも考えられる。

あるいは、もう人類とは呼べない、

ちがう生き物になっているのかもしれない。

 

ぼくたちの脳はもうそのことをどこかで感知している。

じつは得体の知れない不安のもとはそれである。

 

僕も含めてみんな、漠然とした将来への不安を抱え、

なんとか拭い去ろうと躍起になっているが、

はっきりいって無理である。

 

いずれ人類は滅亡する。

ぼくたちはその途上にいる。

 

人が地球滅亡・人類滅亡の物語を創り続けるのは、

一時的にでもその不安を払しょくし、

心の安定を取り戻すため。

いわば、一種の宗教的行為なのである。

 

そこには女神が、英雄が、救世主がいる。

そしてあなたの隣に愛する人が、大切な人がいる。

地球滅亡・人類滅亡の物語はそう教え、人々を導く。

安心できるためには、

やっぱり「愛」と「信じること」が必要なのだ。

 

と、ここでアルマゲドン愛のテーマ、

エアロスミスの「I Don't Want To Miss A Thing」が

ドラマチックに流れる。

ああ、また映画が観たくなった。

 

というわけで、もしコロナがおそるべき変異を遂げたら、

マスクしろ・しなくていい、

ワクチン打つべし・いや、あれは毒だ、支配層の陰謀だと

しょーもない喧嘩をすることなく、

人類は愛の心で一丸となてるのではないか?

 

もちろん、そんなことは望んでないけど、

たとえコロナが今のレベルでも、

かかったら重症化して死んでしまう可能性は誰にでもある。

 

べつに地球が滅亡しなくても、人類が滅亡しなくても、

あなたが死んだら、

あなたの地球も世界もそれで終わってしまう。

だから気を付けてね。

そして、死なないでね。

あなたの地球、あなたの世界を守るために。

 

電子書籍新刊「1日3分の地球人」

8月31日(火)15:59まで

新発売記念5日間無料キャンペーン

忙しくて目の前のことしか見えない。考えられない。

でも1日3分でいいから、空に浮かんで地球を見つめてみる。

脳だけ旅人にして世界を歩いてみる。

せっかくこの星に生まれたのなら、

自分が芥子粒のように思える広い空間と長い時間こ手足を伸ばして寝そべりたい。

そんな思いを抱いて綴った地球・世界についてのエッセイ集。

ブログ「DAIHON屋ネタ帳」より30編を厳選・リライト。

●もくじ

他者に不寛容だから幸福度低い?ニッポン

1月21日のルイ16世とマリー・アントワネット

アムステルダムのナシゴレンとコロッケとアンネ・フランク

孤独担当相の誕生

ヒトラーの人間力

 「GACHI」という言葉を外国人に説明すると

 未来のことは子どもに学ぶ

 人新世(アントロポセン)を生きる ほか

 


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週末の懐メロ45:Summer/久石 譲

 

テレビのコマーシャルやBGMでよく耳にするこの曲は、

1999年に公開された北野武監督の映画「菊次郎の夏」のテーマ曲。

 

「遠く離れて暮らすお母さんに会いに行きたい」

「よし、おじさんが連れてってやる」

 

ちょっとどんくさい感じの少年マサオを、

たけし演じる寅さんみたいなヤクザ男・菊次郎が

小さな旅に連れ出す。

 

ただそれだけの話なのだが、

ふさけてて笑えて、

かわいくて切なくて、

少年の心と中年男の心が重なり合う。

僕の心の地図の中で最高峰に位置する映画である。

 

歌詞のないインストゥルメンタル曲だが、

メロディラインの中に映画で描かれる

夏、旅、海、花火、お祭り、無垢で不器用な少年、

アホでこころやさしい大人、笑い、涙。

そして昭和から平成初期にかけての近過去の日本。

そのすべてのエッセンスが盛り込まれている。

まさしく懐メロの中の懐メロだ。

 

YouTubeにはこの映画と音楽に関する

北野監督のインタビューが投稿されている。

 

Q「『菊次郎の夏』では、作曲家の久石譲との協力が

いつにもなく強調されており、

そこから尊敬と称賛の意を受け取ることができます。

あなたがた二人がどのように作品を作っていくのか、

より詳しく教えていただけますか?」

 

監督「いつもは編集したものを見せて、

さあ、これにつけろとぜんぶ任せてたんだけど、

今回だけは、こういったメロディラインでって、

音楽の内容にまでかなり言ったので、

こんなような音楽が出来てくるだろうなって

思って撮っていったので当たったんだろうね」

 

この曲はたけし監督の想いを

見事に反映した曲でもあるのだと思う。

 

けれども、近所のどこの馬の骨とも知らぬおっさんが

熱中症も気にすることなく、

ヤバイ場所、うさんくさい場所も含めて

子どもをあちこち連れ回すことはもうできないし、

心を重ね合わせることもできない。

 

菊次郎や僕たちが体験した「昭和の夏」

「日本ならではの夏」は、

時代が変わり、社会が変わり、環境が変わった今、

洗練され、加工され、

アク抜き処理をされたパッケージ商品のようになっていく。

 

この先もナチュラルな形で残していくのは、

もう難しいのかもしれない。

 

その代わりと言っていいのかどうかわからないが、

ジブリ映画などの音楽も手掛ける久石譲は、

いまや現代の日本人の心の原風景を作っているかのようだ。

 

「日本ならではの夏」を伝えていくためにも

懐メロ映画や懐メロ音楽を愛し続けたい。

 

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8月26日(木)16:00~31日(火)15:59

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脳だけ旅人にして世界を歩いてみる。

せっかくこの星に生まれたのなら、

自分が芥子粒のように思える広い空間と長い時間こ手足を伸ばして寝そべりたい。

そんな思いを抱いて綴った地球・世界についてのエッセイ集。

ブログ「DAIHON屋ネタ帳」より30編を厳選・リライト。

●もくじ

他者に不寛容だから幸福度低い?ニッポン

1月21日のルイ16世とマリー・アントワネット

アムステルダムのナシゴレンとコロッケとアンネ・フランク

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ヒトラーの人間力

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 人新世(アントロポセン)を生きる ほか

 


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