
先日、ある介護士の方のSNS投稿で、
喫茶店で高齢者たちが
「認知症になったら人生終わりだよね」と
会話しているのを聞いて、
心穏やかではいられなくなった、というものがありました。
彼は施設で認知症患者の人たちの面倒を見ています。
他の投稿でその奮闘ぶりをレポートしていますが、
これがまた凄まじい。
読むと、うちの義母の奇行・妄想・へそまげ・おもらしなんて、
まだまだかわいいものだなと思ってしまいます。
この介護士の方は、ひどい目に遭いつつも、
患者さんたちの純真な人間性に触れることで、
教えられたり救われたりするというのです。
ちょっときれいごとっぽいけど、
僕も義母と一緒に暮らしていて、
彼と同じようなことを感じるときがあります。
それは幼い子供と接しているような感覚です。
彼ら・彼女らは社会人という枠組みから抜け落ち、
子供に還っています。
いろいろおかしな言動は、
ストレスなく日常生活を送りたい僕たちにとっては
困りものですが、
子供と同じと解釈すれば、ある程度は大目に見れます。
でも、自分が認知症になったら・・・と考えると、
「人生終わりだよね」には、半分は同意せざるを得ません。
僕も息子を育てましたが、はじめは何もできなかった赤ん坊が、
だんだん自分でなんでもできるようになっていくのを見るのは
感動的でした。
本人も、あれもできる、これもできると、
日々実感していくのは、大きな喜びだったでしょう。
しかし、老いることはその逆の道をたどることです。
だんだん自分一人では何もできなくなっていく。
これは怖い。
僕は死ぬことにも、老いることにも
そんなに恐怖心を持っていませんが、
自分一人で何もできなくなるということには
大きな恐怖を感じます。
喫茶店のおばあさんたちも、
きっと僕と近い気持ちを持っているのでしょう。
「認知症になったら人生終わり」
それは自分のプライド・アイデンティティを失う恐怖であり、
社会から見捨てられる恐怖を表す言葉とも受け取れます。
でも、件の介護士さんのように
「そうじゃない」という人の意見が共感を得て、
認知症の人は日常生活はうまくできないけど、
あの人たちがいるとうれしい、楽しいという人、
だから助けになろうという人が増えれば、
この社会はまた変わってくるかもしれません。
これから先、認知症の人も障害を持った人も
豊かに楽しく暮らせる社会になるのか、
欲とエゴと嫉妬心むき出しの、
ラットレース社会がますます進展するのか、
その端境期が来ているのかもしれません。
認知症になって過去のことなど忘れても、
毎日生まれ変わったような気持ちで人生を続けられる。
とりあえず1日3分、そういう世界を想像してみようと思います。
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