きみは人生の最期に何を食べるのか?

 

もう7年ほど前だが、「最期の晩餐」をテーマにした

ラジオドラマのシナリオを書いた。

ミステリー仕立てにしたのがウケたのか、

コンクールで2回最終選考まで残ったが、

いずれも受賞には至らなかった。

 

いずれノベライズしようと目論んでいるが、

あっという間に月日が経って、

まだそのままほったらかしにしてある。

 

これはやはり誰もが興味を持つ、

おいしい題材らしい。

ドイツのホスピスで食事を提供しているシェフが

「人生最後の食事」という本を出しているし、

終活関係の仕事をやっていると、

ネット上で割と頻繁に見かける。

こうしたアンケート調査には

すすんで参加したくなる人が多いようだ。

 

単純に自分の好物を回答する人が多いと思うが、

そこに何か自分の記憶など、精神的なものを絡めて、

「あの時、その場所で、あの人と食べた○○」

という人も少なくない。

 

でもきっと「あの人」がいっしょにいなければ、

その食事の味を再現するのは難しい。

時間や場所も同様だ。

いくらその食事を作るのが超一流のシェフでも、

それは絶対不可能なのだ。

 

人生の最後に何を食べようか。

そう思い巡らせることは、

自分の人生を振り返る究極の終活だ。

 

ただ、いえるのは、

「最期にあれが食べたい」と言って、

意識的に最後の食事を選択し、口にできるのは、

まれに見る幸福者である、ということ。

 

そもそも死を前にした人は、

食欲などない。

僕の父親も母親も、

最期の数日間はほとんど何も食べられなかった。

母の最期の時、僕は介護士に

「食べたくないのなら、

無理に食べさせようとしないでください」

と頼んだ。

 

人は生きるためにめしを食う。

食は生きるエネルギーの源。

これから死んでいく人には不要なものなので、

食欲など湧くはずがない。

 

だから「最期に何を食べたいか?」という質問自体が、

夢みるファンタジーの世界の産物なのである。

 

それでも人は自分に、他の人に問わずにはいられない。

「あなたは人生の最期に何を食べたいですか?」

そうして人は記憶を辿り、ファンタジーの世界に没入する。

そんなことを考えると、死ぬまで人間は面白い。