葬式は美しい家族の物語でなくてはならないか?

 

母親が亡くなった時、葬儀の司会進行担当の人から、

「お母さんの料理で好きだったものは何ですか?」

と聞かれて、「ハンバーグ」と答えた。

するとどんな特徴があったのか、

割としつこく聞かれて、ちょっと戸惑った。

 

僕もインタビューをよくやっているので、

「何かこれだというネタを引き出さなくては」

と、インタビュアー(この場合は、葬儀の司会者)が

がんばる気持ちはよくわかる。

そのことを「おふくろの味はハンバーグ」

というエッセイにして、本にもした。

 

「おふくろのハンバーグは、

めっちゃうまかったんですよ。

ネタにちょっと○○を混ぜて独特の風味を出し、

ソースがオリジナルで、焼き方も変わってて、

ちょっとあの味は、

どんな高級レストランでも味わえないなぁ」

くらい言えれば、司会の人も満足したのだろうが、

まったくそんなことはない。

 

確か小学生の高学年の頃だったと思うが、

一度か二度、ちょっと変わったソースを作って

出したことがあった。

料理本か料理番組で見たのでトライしてみたのだろう。

息子が「おいしい!」と喜ぶ顔を

想像しながら作ったのかもしれない。

 

ところが、親不孝息子は、

「こんなのいやだ」と言って、

いつものソースとケチャップを付けて食べた。

母はキレまくってヒステリーを起こし、

二度とやらなかった。

 

もしかしたら、後から泣いたかもしれない・・・

とは、64になる今まで一度も考えたことがなかった。

申し訳ないことをしたなと思うが、

人の心を慮れない子どもだったので、しかたがない。

 

母親のことが嫌いだったわけではない。

しかし、彼女の手料理は、

全般的にそんなにうまくなかったし、

彼女自身も、料理が好きだったわけでなく、

ストレスフルな家庭の状況のなかで

「主婦のルーティンワーク」としてやっていたと思う。

 

毎日、がんばって作って

食べさせてくれたことには感謝するが、

18で家を出たあと、母の手料理がなつかしい、

また食べたいと思ったことは一度もなかった。

 

それよりも、その頃のガールフレンドや友だちと

いっしょに作って食べたもののほうが

よっぽどうまかったし、楽しくて思い出に残っている。

 

しかし、日本では子ども(特に息子)は、

おふくろの味に愛着が深く、

懐かしがるものだ——という

一種のデフォルト的な考え方がある。

葬儀の司会者もそれに則って、

しつこく僕に聞いたのだろう。

 

「おふくろの味」は、

感動のある葬式をつくる具体的な素材として、

とてもわかりやすく、とても便利なものだ。

 

「お葬式は美しい家族の物語」

多くの葬儀屋さんは、そうした広告を打つし、

お客もそのフレーズで安心する。

 

ただ、あまりに家族とは仲の良いもの・

愛情豊かなものという物語にとらわれると、

そこから外れた人、

自分は親に愛されなかった、

子どもを愛せなった、という思いを抱いている人は、

必要以上に不幸な気持ちを抱くことになるのでないか。

 

8年ほどやってきた葬儀雑誌の仕事から

少し距離を置くことになった影響もあり。

ちょっとシニカルに、そんなことを考えた。