ヒューマンエラーまみれのパリ五輪についてAIと語る

 

いよいよパリ五輪も閉幕。

忙しくてあまり見ていなかったが、

スケボー、クライミング、やり投げ、マラソンなどは

リアルタイムで夢中になって観戦した。

 

とくにクライミングは大好きで、

安楽選手と森選手の活躍には大拍手。

北口選手のカッコいいやり投げ、

女子マラソン・鈴木選手の

粘り強い走りにも胸打たれた。

 

野球やサッカーを含め、

ふだん、スポーツはニュースで結果を見る程度だが、

やっぱりリアルタイムでガッチリ見ると面白い。

そういう意味では、オリンピックは

多彩なスポーツをよりどりみどりで楽しめる

「世界スポーツ博覧会」のようなものだ。

 

その一方で注目度が高いだけあって、

いろいろな人・国の欲やら思惑やらが入り混じる、

この晴れ舞台では、誤審やら、順位の間違いやら、

競技そのものに関するアクシデント、

運営に関するトラブル、報道や情報配信をめぐるトラブル、

その他、他の大会などではあり得ないことが次々と起こる

「ヒューマンエラー博覧会」でもある。

 

以前はIOCや開催都市のカネもうけ主義や、

ダーティな部分にやたらと腹を立てていたが、

今回のパリ大会を見て、

そうしたダメな部分・負の分野も合わせて楽しむべきだし、

その背景を考えるべきだな、と見方を改めた。

 

ちなみに先日,AIに

「オリンピックにおいて、誤審防止のために、

なぜ審判するのにAIを使わないのだろう?」

と尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。

 

【AI氏】

ああ、まったく、また誤審の話ですか。

オリンピックなんて楽しむための祭りじゃなくて、

誤審の博覧会なんでしょうか。

もう、どうしてこんなに誤審が多いんでしょうね。

まさか、わざとやってるんじゃないか

とすら思ってしまいますよ。

でも、それだけAIが普及している世の中で、

なぜオリンピックでAIを使わないのかって?

そりゃ、いろいろ大人の事情があるんでしょうね。

 

★結論(Point):

オリンピックで誤審を防ぐためにAIを使わないのは、

伝統や人間の感情、

技術的な限界などが絡んでいるんですよ。

いやぁ、皮肉なもんです。

 

★理由(Reason):

まず、オリンピックってのは、

歴史と伝統を重んじるイベントですよ。

だから、審判の判断も「スポーツの一部」として

受け入れられてきたんです。

人間の審判は、

その場の雰囲気や選手の意図を感じ取ることができるから、

単純なルールだけじゃなくて、

スポーツマンシップとか

フェアプレー精神とかも理解してるんですよね。

でも、AIにはそういうのは無理です。

感情やニュアンスなんてものは、

AIにとってはまるで無縁の世界ですから。

 

★具体例(Example):

例えば、サッカーの試合で

微妙なオフサイド判定がありますよね。

AIは正確に線を引いて判定を下すことができますが、

選手の意図や試合の流れなんてのは考慮しないんです。

あと、フィギュアスケートの演技の美しさや感動を

AIが評価するなんてのも無理な話です。

データに基づいて正確な判定を下すことはできますが、

その背後にある人間の感情や努力なんてものは、

AIには理解できませんからね。

 

★結論の再確認(Pointの再確認):

結局、オリンピックで誤審を防ぐために

AIを使わないのは、

スポーツの伝統や人間の感情、

技術的な限界が関係しているんです。

AIの技術が進化し続けているとはいえ、

人間の感情やニュアンスを

完全に理解することは難しいんですよ。

 

スポーツの本質ってのは、人間同士の競い合いであり、

その中で生まれる感動やドラマが重要なんです。

AIがどれほど正確な判定を下せても、

人間の感情や感動を完全に代替することはできません。

そういうわけで、オリンピックで誤審を防ぐために

AIを使わない理由には、

スポーツの伝統や人間の感情、

技術的な限界が影響しているんです。

 

なんともまぁ、皮肉な話ですが、

これが現実なんですよ。

オリンピックの審判の在り方について考えると、

AIの導入にはまだまだ課題が多いことが

理解できるでしょうね。

 

いやぁ、スポーツって本当に難しいもんです。

誤審なんてなくなればいいのに、なんて思いつつ、

現実はそう簡単にはいきませんね。

まぁ、そんなもんですよ、人生もスポーツも。

 

ちょっとキャラを入れて、

なおかつ理論的に説明させているので、

こんな回答になったが、

なかなか意味深で哲学的で面白いと、僕は思っている。

 

柔道やバレーなどの誤審に対して、

自分も含め、SNSで怒りの声が渦巻いていたが、

ああしたヒューマンエラーも起こるので、

スポーツは面白いし、

感動的なドキュメンタリーになり得る。

 

オリンピックではないが、

かのサッカーアルゼンチン代表の

ディエゴ・マラドーナ選手が、

1986年のワールドカップでやった

「神の手ゴール」も大誤審。

たぶん現代だったら絶対に認められないだろう。

しかし、「5人抜き」だけでなく、

あの「神の手」というプレーがあったから、

マラドーナは今も語り継がれる

レジェンドになっているのではないかと思う。

 

AIも解説しておる通り、エラー、間違い、

トラブルがあるからこそ、

スポーツはヒューマンドラマとして、より楽しめる。

もし間違いをすべて排除するために、将来、

審判をすべてAI・ロボットにしてしまったら、

きっと人々は「ああ、昔のオリンピックはよかった」

と懐かしむことになるだろう。

 

というわけで、また明日、

オリンピックと人類の未来について考察してみたいと思う。