友の49日と「友だち法要」

 

今日は4月に亡くなった友人の49日なので、

朝の、両親と義父の供養の際にいっしょに

生前の様子を思い浮かべた。

 

かつて一緒に劇団をやっていた仲間なので、

ビデオなどなくても、舞台での姿やセリフの声を、

ありありと思い出せる。

もう40年も前のことだが、

自分の人生のハイライトのように思える。

 

遠いのと、仕事や家庭の事情で

日程調整ができず、葬式には出なかった。

だからせめて…という気持ちもある。

 

ちなみに先週、取材したお寺では

「友だち法要」という試みをやっていて、

とてもユニークだなと思った。

 

最近は家族でけで行う葬式が主流になって、

家族・親族以外の人が呼ばれることはめっきり減った。

 

けれどもその故人にとって、

仕事仲間とか、趣味の仲間とか、

いつもお茶する友だちとか、

親しくしている友人が何人かはいる。

いっしょに暮らしているのでなければ、

むしろ家族や親族よりも、

そうした友人や仲間のほうが親しく接していたはずだ。

 

しかし、血のつながりがない友人・仲間は

故人を弔う権利がない。

たとえば離れて暮らしていた息子が喪主になる場合、

亡き母のそうしたお茶友だちとか、

むかしの友だち・仕事仲間などは、

その存在さえ思いもよらない――

ということが大半だろう。

それはしかたがないことだと思う。

 

葬式に呼ばれない、そうした友人・仲間は、

事後に訃報をもらったり、

人づてに「どうやら亡くなったらしい」

とは認知できても、

それが現実のことかどうか実感が持てない。

 

みんなでお別れ会・偲ぶ会をやるのもいいが、

やっぱり坊さんにお経を上げてもらわないと、

ちゃんとお弔いをした、

という気持ちになれない人もいるだろう。

 

その寺ではそうした人たちのニーズを汲んで

「友だち法要」を始めたという。

これがいいのは「面倒がない」ということ。

 

開催するのに家族にいちいち許可を得なくてもいい。

いつ亡くなったかも正確にわからないくてもいい。

ただその人の名前がわかり、

そこに集まる人たちはみんな、

彼・彼女の生前の姿を共有できればいいのだ。

 

人間は多面性がある。

家では家族に疎んじられるようなダメ親父が、

職場では素晴らしい上司、

趣味の仲間のあいだでは気さくで楽しい人徳者、

ということがままある。

人間性・キャラクターというのは

その人が身を置く環境・コミュニティによって

簡単に変わって見えるのだ。

 

だから、それぞれの関係性に応じた弔い方があって、

そこに集まった人たちが、

彼・彼女との思い出を大切にし、

今後も楽しく生きていくためのエネルギーに

変えられればいいのだと思う。

 

エンディング関連の仕事を始めて早や8年、

いろいろ新しい企画、サービス、

その背景にある事情や考え方などを

取材して記事にしてきたが、

やればやるほど、葬儀・供養というのは

自分に合ったやり方・できるやり方でやればいいんだな、

と思うようになってきた。

 

新しい考え方をもって自由に生きてきた人でも、

葬儀・供養の領域になると、なぜか保守的になる。

みんな、しきたりとか、過去の慣習にとらわれ、

そこから外れてしまうのことを恐れる。

そんな印象がある。

 

家の宗教でなく、個人の宗教。

家のやり方でなく、個人のやり方。

もうとっくにそういう時代になっていると思うのだが。