ノンフィクションライター沢木耕太郎が描く、
旧日本軍の密偵(スパイ)西川一三(かずみ)の物語。
西川は太平洋戦争末期、日本ではラマ教と言われていた
チベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまして、
当時の日本の勢力圏だった内蒙古から
中国大陸の奥深くまで潜入。
終戦後もそのまま1950(昭和25)年まで
チベットからインドまで旅を続け、足かけ8年の間、
蒙古人「ロブサン・サンボ―」として生きた。
西川は帰国後、朝鮮戦争勃発の際、
蒙古からチベットに至る未知の地域の情報を持った
貴重な人物としてGHQ(進駐軍)に呼び出され、
執拗な質問攻めにあって調書を取られた。
しかし、そのおかげで8年間の旅の記憶を思い出し、
「秘境西域8年の潜行」という、
原稿用紙3200枚(128万字)の大著を書き上げる。
それが出版されたのは書き上げてから
15年以上も経ってからのことだったが、
昭和の一時期、ちょっとした話題になったようだ。
ノンフィクションライターとして活躍していた
沢木耕太郎は、本を読んでこの人物に興味を持ち、
1997年、当時の西川の住居があった岩手県で会う。
それから月に一度ずつ、居酒屋で会って
1年あまりにわたって取材を続けた。
しかし、情動に突き動かされて取材したものの、
何をどう書いていいのかわからず、
10年以上の月日が経つうちに高齢だった西川はガン、
そして認知症を発症し、この世を去ってしまう。
沢木がこの本に手を付け始めたのは彼の死後。
コロナ禍の間、頭の中でひたすら
西川の旅路を辿るように書き続けたという。
結局、取材の始まりから書き上げ、
2022年10月の単行本出版にたどり着くまで
費やしたのは25年。
そしてこの中で描かれる西川の巡礼僧に扮した
“潜行”の旅の物語は、そこから遡ること、
80年以上前の話なのである。
こうした長大な時間を思い描いただけで圧倒されるが、
内容は割と淡々とつづられていく。
もちろん密偵としての旅の記録は
ドラマチックで面白いし、文章から広がる
蒙古、チベット、インドの大地、街、
空の風景には魅了される。
ただ、僕はむしろそれより日本に帰国した後の
西川の生きざまに心惹かれるものがある。
過酷な旅の中で育まれた西川の価値観は、
戦前と180度変わってしまった戦後の日本社会のなかで
いつも蒙古やチベットの大地の幻想を追っていた。
しかし、のちに結婚する女性に
「現実を見なさい」とたしなめられて変わっていく。
そこに静かな感動が満ちる。
若い頃から世界のあちこちを旅して
ノンフィクションを書いていた沢木は、
そうした彼の人生に呼応して
長い年月をかけてこの本に取り組み続けたのだろう。
あとがきで沢木は書く。
「私が描きたいのは西川一三の旅そのものではなく、
その旅をした西川一三という稀有な旅人なのだ」
その言葉は、旅人として生きた西川の価値観を
沢木自身も共有していることを確認するかのようだ。
時間的・空間的スケール、
異文化の地の冒険物語としての面白さ、
戦中・戦後のドキュメント、
そして人生における自分の価値観を考える素材。
570頁の長大なノンフィクションだが、
いろいろな読み方ができる傑作である。
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