「シン・ゴジラを超えた」と評価の高い
「ゴジラ-1.0」を見た。
時代設定が太平洋戦争末期から戦後間もない、
80年近く前の日本。
ここまで時間を戻してしまうということは、
ゴジラ映画のリセットを意図しているのか?
前作 庵野監督の「シン・ゴジラ」もそうだったが、
それとは真逆のベクトルのリセットだ。
以下、ネタバレありで。
戦争直後の東京の再現ということで
昭和レトロ世界構築の実績を持つ
「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎監督が出陣。
街の風景・環境の作り込みなどはよくできているが、
ストーリーが「ALWAYS」と違って、
シリアスでスケールが大きいせいもあり、
この時代の雰囲気づくりにはイマイチ感が漂う。
僕が時おり、
古い日本映画を見ているせいもあるのだろうけど、
そもそも俳優さんの顔つき・体つきが、
あの時代を生きていた人と現代を生きる人とでは、
同じ日本人でもずいぶん違うと感じる。
これはもうどうしようもない。
食い物もライフスタイルも80年前とはまったく違うのだから。
そこに難癖をつけるつもりはない。
しかし、補完する工夫はもっと必要ではないかと思う。
東京のど真ん中にゴジラが上陸して、
死傷者3万人という大惨事が起こったのに、
日本政府も、当時統治していたGHQも
まったく対策に関与しないのは、
どう考えても解せない。
元軍人たちの民間組織に丸投げするっていう設定は
無理があり過ぎだ。
「シン・ゴジラ」では政府の対ゴジラを描いたので、
今回はそれを避けたというのはわかるし、
台詞の中でもなぜ日本政府も米軍も出てこないかの説明は
一応ある。
けれども少しは政府高官なり、GHQの将校なりとの
やりとりのシーンが出てこないと
リアリティ不足は否めない。
もう一つ、ストーリーで不服だったのが、
主人公・敷島(神木隆之介)の描き方。
彼はもともと特攻隊員だが、冒頭シーン、
その任務から逃げて修理班のいる島に不時着し、
そこでまだ水爆実験の影響を受ける前のゴジラに遭遇する。
飛行機の機銃でゴジラを撃とうとするができず、
結果、修理班の人たちを見殺しにしてしまう。
なぜ敷島は特攻隊の任務から逃げたのか?
なぜ危機的状況でも機銃を撃てなかったのか?
何か重要なトラウマがあるのだろうと思ってみていたが、
どれだけ話が進んでもその説明は一切ない。
なので戦後、典子(浜辺美波)と出逢って
いっしょに暮らし始めてからも
イマイチ彼に感情移入できず、ドラマに深みが出ないのだ。
典子は戦災のせいで
自分の子ではない子供を育てることになったという設定。
それ自体は戦後の混乱を表現する要素で良いと思うが、
それだけで深掘りしていないので、
イマイチ設定が生きていない。
現代の日本人への
大事なメッセージを含んでいる気もするだけに
非常にもったいないなと感じる。
映像技術だけでなく、人間ドラマの部分も
高く評価されていると聞いていたので
期待していただけに、
こうした人物造形の粗さ・ドラマ作りの甘さが
よけい気になってしまった。
もっと丁寧に描いていたら
すごくクオリティアップしたのになー
と思うと、残念でならない。
ただ、僕にとっては欠陥に思えるそうした部分が
この映画をシンプルでわかりやすいものにしているので
アメリカでも受けているのかな、とも思う。
確かにこの脚本は、主人公が
「自分にとっての戦争」を終わらせるという
ゴールに向かって
様々な困難を克服していくという、
ハリウッドの黄金律に忠実なヒーロー物語になっている。
それに水爆実験の影響でゴジラが強大化したとか、
放射能を武器とした怪獣である点も
申し訳程度に説明しているだけで、ひどく印象が薄い。
もしやこういうところもアメリカに贖罪意識を抱かせず、
売り込むための忖度?
熱線発射の際に背中のヒレが青光りして
順番に立っていくところは、
「シン・エヴァンゲリオン」の
エヴァ2号機ビーストモードだし、
ラストの海中の覚醒シーンは、
1990年の「ゴジラVSキングギドラ」のまんま焼き直し。
そうしたイメージが連なってきて、
どうも原点回帰とか昭和レトロ世界観が伝わってこない。
と、ずいぶん難癖をつけてしまったが、
新世代向け、世界向けにリセットしたと考えると、
そのへんのことも
みんな成功要因になっているようにも思える。
思えば東宝は10年おきくらいに
ゴジラ映画の製作を諦めたり、
再開させたりを繰り返しているが、
やっぱりやれば客が入り、
一定の興行収入が見込めることを考えると
ゴジラ様を完全に引退させるわけにはいかないらしい。
これまでも何度かゴジラ映画限界説がささやかれたが、
そのたびに復活し、
「もう限界だと感じた時点がスタートだ!」を
実践してきた。
次はどんな切り口でゴジラを再生させるのか、
楽しみではある。
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