母校 池袋の舞台芸術学院を訪ねる

 

昨日ふたたび池袋へ行く。

10日あまり前とは別の仕事の取材だが、

たまたま同じ池袋。

先月は雨天であまり街の写真が撮れなかったので、

少し早めに行ってスマホでウロウロ撮影作業。

 

劇場の話に合わせる写真がいるので、

西口にあるわが母校 舞台芸術学院にも足を運んでみた。

卒業したのはもう43年も前のことだ。

 

当然、校舎は改築されているが、

場所も道路を通し、区画整理した関係で

僕たちの通っていた頃より20mほど移動している。

 

創立されたのは1948(昭和23)年。

終戦からまだ3年目のことで、

このあたり一帯は焼け野原だったらしい。

 

ホームページを見て見たら、

こんな創立の物語があった。

https://www.bugei.ac.jp/about/school/

 

演劇を志したひとりの青年、野尻徹。

彼は幸運にも復員し、池袋で演劇活動の拠点、

「スタジオ・デ・ザール」を開設しました。

しかしその志半ば、彼は27歳でこの世を去ります。

彼の演劇への「思い」はここで潰えたようにみえました。

しかし、彼のあまりにも早い死を悲しんだ父、

与顕は息子の遺志継承を願います。

 

「地に落ちた一粒の麦、徹死して幾百幾千の

舞台人となって実るであろう事を」

 

1948年9月13日、与顕は焼け跡の残る

東京・池袋に演劇を渇望した息子、

徹の遺志を継ぐべく、私財を投じ、

若者が演劇に打ち込むための場

「舞台芸術学院」を創立しました。

 

(※以上、ホームページより抜粋)

 

初代学長である秋田雨雀、副学長である土方与志は、

日本の近代演劇史・文化史に名を遺す人なので

いちおう知っていたのだが、

真の創設者である野尻さん親子のことは

恥ずかしながらまったく知らなかった。

 

これは75年前、西口公園に闇市が群れをなし、

池袋全体がダークでカオスな街だった時代の話である。

(池袋のヤバさ加減は、小説・ドラマになった

「池袋ウェストゲートパーク」あたりまで引き継がれてた)

 

75年の歴史のなかで有名・無名かかわらず、

多くの演劇人、そして、そこに連なるハンパ者たちを

輩出している舞台芸術学院。

 

60年代の舞芸の学生が、南池袋の仙行寺と関わったことから

小劇場「シアターグリーン」が生まれ、

その活動が波及し、西口公園の

「東京芸術劇場」につながり、

その他、東口の「サンシャイン劇場」「あうるすぽっと」、

野外劇場「グローバルリングシアター」、

最近ではシネマコンプレックス、商業施設と一体化した

文化施設「HAREZA(ハレザ)」の一角を占める

「東京建物ブリリアホール」という劇場もできた。

 

百貨店・家電量販店・アニメショップなどの

印象が強い池袋だが、

いまや新宿・渋谷をしのぐ劇場が花咲く街である。

その最初の一粒がわが母校だったことに

改めて驚きと感動を覚えた。

 

在籍時を含めて45年間、創立の話を知らなかったのは、

ハンパ者卒業生の一人として、ほんとに恥ずかしい限り。

長い時間を要しないと、僕のようなボンクラには

世界が見えない、意味が分からない。

 

しかし、とりあえずこの母校と池袋の劇場の件については

死ぬ前に気付いてよかった。

自分の新しい歴史がまた新しく始まった気がする。