開催中は選手の活躍にエキサイトした。
感動ストーリーもたくさん生まれた。
日本のメダルラッシュも喜ばしいことだ。
でもやっぱり終わってみて、
オリンピックの開催意義を考えざるを得なかった。
最後まで理念が抜け落ちたままだった
東京オリンピック。
その印象は変わらない。
それを象徴するかのように
閉会式は締まりのないものだった。
選手が解放的になり、リラックスするのはいい。
競技をやり遂げた喜びを表すのはいい。
けれども平和の祭典・多様性の象徴であるはずの
オリンピックが日本で行なわれているのに、
それも日程に8月6日を含んでいるのに、
閉会式翌日(=きょう)は8月9日なのに、
どうして広島・長崎への黙禱が行われないのか?
橋本会長・バッハ会長のスピーチの時に
それはできたはずである。
それがあれば閉会式も全然違った印象になったのだろうに。
東京で、日本で開催した意義も、価値も、
後世に与える印象も違っていただろうに。
これもまた政治・思想に
オリンピックを利用するのはまかりならん、
ということに当てはまるのだろうか?
黙禱はお祭りにふさわしくないからか?
そうとは思えない。
1994年のリレハンメル(ノルウェー)冬季大会の開会式では
サラエボに向けて黙祷が行われた。
サラエボオリンピック(冬季大会)は、
その10年前の1984年に行われた。
旧ユーゴスラビア(現ボスニアヘルツェゴビナ)の首都である。
しかしオリンピック開催後、東西冷戦構造の瓦解に伴って、
ユーゴスラビアという国家自体が崩壊。
いくつもの国に分断され、
サラエボは内戦と民族間の対立と大量虐殺の舞台となってしまった。
僕はもちろんテレビで観ていただけだが、
あの黙禱にシーンは
27年経った今でも鮮明に覚えている。
それくらいオリンピックという場はメッセージの発信力が強い。
もちろん、サラエボはかつての開催地であるなど、
事情や背景は異なっているが、
それにしてもやっぱり、なぜやらないのか?
という疑念はぬぐえない。
当然、裏では議論もあったようだが、
結局、IOCは首を縦に振らなかった。
パンデミックという厳しい条件の下で、
半ば無理やり開催したのだから、
単なる祭典ではない、スポーツだけではない、
オリンピック独特の意義を謳ってよかった。
謳うべきだった。
それが、人類がコロナウイルスを克服した証云々にも
繋がるんじゃないの?
菅首相も、小池都知事も
もっとがんばれなかったのか?
・・・といっても、もう遅いけど。
パフォーマンスの一部に出演した大竹しのぶさんも
そのことを残念がっていた。
..
宮澤賢治の詩を子どもたちに語って聞かせるという、
ちょっと意味不明のお芝居。
正直「なんでこんなシーン入れるの?」と思ったが、
あれは黙祷をしない・できないことの代償だったのか?
しかし、あれではメッセージにはならない。
せっかく東京で、日本で開かれたのに。
せっかく大きなチャンスだったのに。
選手の活躍や喜びに水を差すつもりはないけど、
今回のオリンピックは、
かなり残念な気持ちでいっぱいだ。
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