この映画では母の遺言を守り、
命を懸けて無限列車の乗客を守る煉獄杏寿郎の姿に
多くの女性が涙し、杏樹郎人気が爆発したようだが、
僕はその前の、自分の夢と戦う炭治郎のシーンが面白かった。
そこには大正時代から現代までの約100年間の
日本人の家族に対する考え方・マインドの変化が
表現されているように読み取れる。
僕の親は昭和ひとケタ生まれだが、
この世代の人たちは「今の人は自分勝手」としばしば口にする。
貧しい時代に生まれ育ち、戦争まで経験した彼らは
「和をもって尊し」という教えが身体に染み込んだ世代である。
僕たちのライフスタイル・ふるまい方・考え方を見ていると、
どうしてもそういう思いが口から漏れ出てしまうのだろう。
こうした旧・日本人の成り立ち方は、
おそらく明治や大正の人も同じだろう。
とにかく貧しかったので、
家族が身を寄せ合い、いろいろ我慢を重ねて
協力し合って生きなくてはならない。
そうした生き方が大多数だったのだ。
国はそこを利用して、日本人は天皇を中心とした家族である、
という夢を見せ、富国強兵を進めて、
アジア随一の軍国国家を創り上げた。
けれども戦後、日本人はその夢から醒め、
生まれからその生活スタイルが激変した。
経済成長とともに、それぞれの個性を重んじ、
それぞれが、それぞれの幸福を追求する
個人主義の時代になっていった。
これもまた、経済成長という夢に乗っかった結果であり、
その夢もいま、醒めようとしているのだが。
いずれにしても昭和の後半、
みんな、それまでの家族の因習、
家族の寄合であるムラの因習から逃げ出すかのように街に出て、
大家族は解体され、核家族になり、
さらに個々バラバラになった。
その状況を見て、やっぱり
「昔はよかった。暖かい家庭があった。
いまの日本人は寂しい」という声が出る。
おそらくこの大正時代の炭治郎の家族を見て、
これぞあるべき日本人の家族の姿と
感動する人もいるかもしれない。
鬼が見せる甘美で幸福な夢の世界。
あの頃の母と弟・妹たちが家にいる。
すべては元通りになっている。
涙の出るような情景。
僕もこのあたりのシーンは泣いた。
そして昭和30年代の自分の子どもの頃まで思い出した。
さすがに竈はなかったが。僕の家の台所も土間だった。
煎餅を焼いた覚えはないが、
冬はみんなで火鉢を囲んで餅を焼いて食べた。
おいしかった。楽しかった。
けれども現実の世界の時計は進んでいる。
もう後戻りはできない。
水面に映った自分自身と対話して
これが夢であることを見破った炭治郎は、
涙ながらに家族に背を向け、走り出す。
そして自分で自分の首を斬ることで
甘い夢の世界から抜け出そうとする。
それは、ともすればレトロな夢にすがりたくなる
現代の日本人の心象を表しているようにも見えた。
しかし、なおも鬼は夢を見せようとする。
今度は悪夢で、死んだ家族たちが
「なぜおまえだけのうのうと生きている」と呪詛を吐く。
それは炭治郎の胸の奥にある罪悪感を突き刺す。
彼は優しい少年なので、炭を売りに出た帰り、
宿を取って一晩過ごしてしまった時に、家族が惨殺されたことに
ひどい罪の意識を抱いているのだ。
けれども彼はその悪夢も破る。
自分の大好きだった家族が自分を呪うわけがない。
彼は死んだ母やきょうだいを信じる心を取り戻し、
「俺の家族を侮辱するな!」と叫ぶ。
そのシーンは結構涙腺が崩壊した。
家族愛をテーマにした「鬼滅の刃」には、
現代の日本人のトラウマを刺激する要素が詰め込まれ、
さまざまなメタファーがあふれている。
それは近代から始まり、江戸時代、戦国時代、
そして原初の鬼・鬼舞辻無残が生まれた平安時代まで遡る。
テレビシリーズと今回の映画は
物語全体の第1幕に過ぎず、まだ2幕・3幕とある。
映画まで見てしまうと、この続きが気になって、
原作のマンガが読みたくなる。
うまいビジネスモデルになっている。
そして原作が完結しているにも拘わらず、
この先、ネタばれ状態でテレビと映画で
またアニメをやるのかも気になるところ。
いずれにしてもコンテンツが優れているからこそ
成り立つビジネスモデル。
今度は原作を読んでいろいろ研究してみようと思う。
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