認知症の義母とこの4ヶ月一緒に暮らしているが、
昨日と今日はいない。
施設のショートステイに預けたのだ。
特に理由はないのだが、いわゆる「ならし」で
一度、利用してみようと思った。
将来的に、もし自分たちで面倒を見られなくなったら、
施設に預ける―ーその伏線でもある。
認知症患者専用のフロアには
魂の抜けたようなばあちゃんたちが大勢いた。
(なぜだか圧倒的に女性が多い)
比べるのは悪いが、義母は比較すると相当元気だ。
残していく時にはちょっと胸が痛く、
逃げるように出てきた。
久しぶりにカミさんと二人だったので、
新宿に行って映画を見てきた。
義母がいないと気楽だし、仕事もはかどるが、
ちょっと寂しい。
これはどういうわけだろう?
義母はもう社会の役には立たない人だ。
それでも一生懸命、僕らの役にたとうと
料理や掃除を手伝いたがり、洗い物や片づけを手伝う。
効率性を考えると、少々邪魔なこともあるが、
「手伝わなくいいよ」とは言えない。
役にたちたいというのは、
人間の本能の次に来るものだ。
自分の存在の証明でもある。
小さい子どもも役に立たないが、
子どもは「可愛さ」それ以上に「未来」という
大人にとって圧倒的にありがたいプレゼントをくれる。
残念ながら、老人にはそれがない。
子どものようになってしまっても、子どもではなく、
子どもと同じ価値もない。
ほとんど役に立たず、わがまま、マイペース。
おまけに認知症だとトンチンカン。
明日迎えに行ったとき、
はたして僕やカミさんのことを憶えているかも怪しい。
しかし、言葉にできないが、価値はあるのだ。
彼女といかに楽しく暮らし、
そのまたとない価値を見出せるかが、
僕の生きるテーマとなりつつある。
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