見捨てられた恋人のようだったアナログレコードが、 なぜ絶滅の淵から回帰したのか?

 

●古き時代への浪漫、だけではない

長年、レコードコレクターがいるのは知っていたが、

それは考古学者が目を輝かせて

恐竜の化石を発掘する

―ーそうした喜びに似ているんだろうと思っていた。

 

ひとことで言えば、過去へのノスタルジー。

古き時代への浪漫、郷愁。

 

年輩のコレクターにはこれに当てはまる人が多いようだが、

最近のレコード事情を探ってみると、

どうもそれだけではない。

 

アナログレコード未体験の若い世代の中にも

結構レコードファンが増えているのだと言う。

 

どうやら彼らはレコードを、

CDやYouTubeやデジタル配信と競合するものでなく、

まったく別種のメディアとして捉えているようだ。

 

●アナログ未体験世代に非日常を提供する

それは形態の違いというよりも、

「聴くスタイル」の違いだ。

 

音楽を聴くのなら、レコードかラジオ、プラス、

ごく一部のテレビ音楽番組など、

非常に限られた選択肢しかなかった僕たちと比べ、

今の若い奴らは何でも選び放題だ。

それにお金もたいして掛らない。

 

その豊富な選択肢の中から、

他と比べて高価なアナログレコードを選ぶのは、

なぜなのか?

 

また、デジタル配信などで聴いている

同じアーティストの同じ曲を、

わざわざアナログレコードで聴くというのは、

どういう心理が働くからだろうか?

 

もちろん人それぞれ理由があると思うが、

あえて概論として考えてみると、

それは生活の中のいろいろなシーンに合わせて

「聴くスタイル」を変えるから、ではないだろうか。

 

デジタル系の音楽が、

掃除や洗濯の時のBGM、

仕事をするときのBGMなど、

日常に溶けこんだものだとすれば、

 

アナログレコードは同じアーティスト、同じアルバム、

同じ曲を聴いても、

それは「非日常体験」になるんだろうと思う。

 

プレイヤーの上に盤を置き、

アームを上げて、静かに針を落とし、

数秒間、演奏が始まるのを待つ。

 

そんな面倒な作業を通して得られる、

何ともいえない緊張感は、

演劇や映画を観る時の体感に似ている。

 

ライブコンサートも非日常体験だが、

それと異なる、自分だけの非日常の世界。

間断なく入り込んでくる情報という名のノイズに

侵されない聖なる時間。

 

そういう世界・時間を内に持つことは、

事あるごとに「社会の歯車」的な感覚を覚え、

アイデンティティを見失い、

日々、生きる意味を問われる今の時代にあって、

自分を育てるのに大切なことだ。

 

ジャケットなどのアートワーク、

歌詞カード、ライナーノーツ、

さらにさまざまな「おまけ」など、

その音楽にまつわるストーリーが

パッケージされたレコードは、楽しさとともに、

そうした自己育成のタネも与えてくれる。

 

●アナログレコードが真価を発揮する時代が来る

1980年代後半の軽薄短小の時代、、

重くて嵩張って、収録時間も短くて、

もはや無用の長物じゃないかと思ったレコード。

 

多くの人が、こんなもの、20世紀の化石じゃないかと審判し、廃棄・二束三文売却の対象となったレコード。

 

見捨てられた、かつての恋人のように、

ネグレストされた子どもか老人のようになってしまったレコード。

 

けれども、その命はレコードを愛する人たち、

レコードを生きる支えにする人たちの手によって守られ、

この30年余りの間、途絶えずに継がれてきた。

命は耐えていなかった。

 

絶滅の淵から回帰したアナログレコード。

一度廃れたからこそ、レコードの文化は

これから先、その奥底に眠っていた真価を発揮し、

人間の心を癒し、活性化させるメディアとして

再び成長するのかもしれない。

 

新しい仕事を戴いたことをきっかけに、

レコード文化復活にまつわる様々なストーリーを探り、

描いていけたら、と思う。