先日、大学生の息子の卒業式に出たいのに出させてくれないというお母さんに、息子さんがいやだと言うのは当然ですよ、僕だって嫌でした、という類のことを言ってちょっと冷た過ぎたのではないかと後悔している。
嫌がるのは息子さんの独立心の証だと言いたかったのだが、そう言えば自分も息子の中学の卒業式に出られなかった。
仕事だったのでやむを得なかったわけだが、子どもの一生一度のイベントを犠牲にしてまでやらなければいけなかったのかなぁ・・・と、しばらくの間、後悔してた。
僕の親の世代はこんなことは考えなかっただろう。
父親は学校なんかに一度も来たことなんてない。
父親がわざわざ子どもの入学式やら卒業式に出るなんて、男を下げることだ――
と、昭和の男たちはそういうだろう。
そんな父を見ているので、母親が入学式やら卒業式やらについてくるのを容認するのは、やっぱり男を下げることだった。
けれども今は母親も父親も大学まで、いや、会社の入社式までついてきたがるし、子どももそれを容認する。中にはぜひ来てほしいと願っている子もいる。
親は子どもの成人した姿を見て何らかの精神的報酬を受けようとしている。
彼もしくは彼女は自分が手塩にかけた立派な作品であることを確認したがる。
その確認を済ませた上で、気持ちをすっきりさせて、人生の次の章に移る。
つまり子どもの卒業式は、親の卒業でもあるわけだ。
そういう意味では、ずいぶん親にやさしい子どもが増えた。
でもこれで、子どもにとっての卒業は、本当に卒様になるのかはやっぱり疑問だけど。
お互いに助け合い、いたわり合って、親子団子になってやっていかないと、この先、生きいくのはきびしいぞという予感がしているのかも知れない。
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