息子が1歳の頃だったと思うが、転んで頭を打ってケガをした。
あわてて小児科へ連れて行ったが、その時、なんでケガをしたのか、かなりねちっこく聞かれた。
ははん、虐待が疑われているのだな、とすぐピンときた。
その医者とケンカすることはなかったが、たったそれだけで、かなり頭に血が上ってカッとなった。
虐待を疑われた親がひどく感情的になったり、詰問する児童福祉司などに強烈な恨み・憎しみを抱いたりするのは、そんな自分のことを思い起こすと分かる気がする。
虐待を疑われるということは、その親にとっては「あなたは親の権利・資格があるのか?」と疑問視され、問い詰められているのと同じだ。
一旦、親となった人間は、その親という立場を失うかもしれないと感じると、強い危惧感・恐怖心を抱くのだろう。
もし「あなたには親の権利・資格はない」と、他人からドーンと言われたらどうか?
「おまえは人間失格」と烙印を押されるのに等しい、屈辱的かつ絶望的なことだ。
そして、なんとかアイデンティティを守ろうと、その屈辱の感情を、学校や児童相談所などの関係者、ひいては社会に対する激しい怒りと憎しみに転化するだろう。
千葉県野田市の女の子の虐待死事件は、世界にも知れ渡り、国連の子どもの権利委員会で問題視されているようだ。
先週、同委員会は、今回の事件をはじめ、日本で子どもへの虐待などの暴力が高い頻度で報告されているとして、政府に対策強化を求めたという。
かつで幕末から明治時代にかけて、日本に駐留した欧米の学者らが、民衆が子どもをとても可愛がり、大事にする姿を見て驚嘆を覚えたと当時の記録にある。
逆に言えば、当時の欧米の民衆は、子どもに対して相当ひどい扱いをしていた(産業革命時の工場での強制労働など)ということだが、それから150年たって状況は逆転してしまったのか、信じたくないけど「日本は子どもの虐待が多発する国」になっているらしい。
これは日本社会全体で向き合うべき問題ではないかという指摘がされたわけで、いわゆる外圧までかかってしまった。
さすがにこういうことが続くと、子どもの虐待に対する法規制の強化・厳罰化が行われるのは、そう遠い先ではないかも知れない。
厳罰化には反対しないが、これは人間のエモーショナルな部分に深く関わる問題であり、へたをすると親の側の人格崩壊にも繋がりかねない。
なので本気でやるのなら、不幸な親子を増やさないためにも、同時に、あるいは事前に、社会全体への十分な啓蒙活動・認知活動が必要なのではないか。
なぜ子どもの虐待問題に、社会全体で向き合わなくてはならないのか。
なぜ虐待をする親が重い罰が科せられるのか。
そもそもなぜ子どもをそんなに大切にするのか。
こうした問いに対する答えはたぶん、僕たちの社会の未来のビジョンを思い描くことにもなると思う。
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