★訃報
YouTubeで1960~80年代前半の音楽を聴いていると時々特定のミュージシャンの音源や映像が激増している現象に出くわす。
で、よく見るとそのミュージシャンなり、そのバンドのメンバーなりが亡くなっていたことを知る。
先月下旬もそれがあった。
年に1度くらいの割合で発作的に聴きたくなる声がある。
森田童子の声。
検索したところ、6月に「いったい今までどこに眠っていたんだ?」と思える貴重な音源・映像が次々にUPされていた。
もしやと思って添えられたコメントを読んで今年4月24日に亡くなっていたことを知った。
世間に公表されたのはJASRACの会報で6月11日となっている。
ぜんぜん知らなかった。
死因は心不全。享年65歳。
最近の基準に照らし合わせれば、早すぎるのかも知れないが、森田童子という虚像はすでに1983年――35年も前に消えていた。
それなのに人々の心の中で強烈な存在感を放ち、生き続けていた。
★1978年
僕が彼女の歌を初めて聴いたのは、東京に出てきて1年目の1978年のことだった。
当時、演劇学校に通っていて明大前のアパートで友達と二人で暮らしていた。
そこは双方の関係からいろんな連中が集まる溜まり場になっており、そのうちの一人がレコードを持ってきた。
森田童子の名前と写真は知っていた。
大きなサングラスとカーリーヘアの風貌から、てっきりブルースシンガーだと思っていた。それも男の。
レコードは「マザースカイ」。
A面1曲目「ぼくたちの失敗」。
短いピアノのイントロに続いて聴こえてきたのは、ブルースシンガーの焼けた声でなく、甘く透き通った少女のような声だった。
心臓を直撃された。
その後40年、いろんな音楽を聴いたけど、これほど素朴で美しいメロディラインを持った楽曲は他にほとんど思い浮かばない。
グッドバイ(75年)、マザースカイ(76年)、A BOY(77年)、東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(78年)、そしてラストワルツ(80年)。
遅れてきた僕がこれらのレコードをよく聴いていたのは3年ほどの間だった。
今でも曲を聴くと、この頃の友達の顔や声、生活の断片、街の風景が妙にくっきりとした輪郭でよみがえる。
僕が経験したのは最後の方だけだったが、森田童子の歌は1970年代という時代の象徴でもあった。
★1980年/1983年
1970年代後半、森田童子はライブハウスで最も観客を集めるシンガーソングライターの一人だった。
まさしくあの時代の空気を体現できるミュージシャンだった。
僕は結局ライブハウスには行かなかったが、テント公演を体験した。
80年11月、池袋の東口・三越裏の空地に黒テントを張って行われた「夜行」と題されたコンサート。
森田童子を生で見たのはそれ一度きりだ。
激しくギターを掻き鳴らす「春爛漫」で、漆黒のテントの中に桜吹雪が夥しく舞っていたのを思い出す。
YouTubeに当時のドキュメンタリー映像(テレビ東京の番組だったらしい)が上がっていて、その中で彼女は語っている。
「あと何年か後には東京でテントを建てるということは不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていく様を見てほしいと思います。そして、私たちの歌が消えていく様を見てほしいと思います・・・(中略)一つの終わりの時代へ向けて、私たちの最後の切ない夢を見てほしいと思います」
80年代に入り、もう自分の歌が求められない時代になっていく。遠からず自分はこの世界(音楽シーン)から消え去るのだ、ということを予感していたのかも知れない。
世間には明るく華やかなダンスミュージックが溢れ始めていた。
孤独や悲しみ、絶望や死を歌う童子の歌を聴く人はどんどん減っていった。
僕もその頃はもうほとんど聴かなくなっていた。
「もう森田童子なんて聴かないよ」と誰かに言った覚えもある。
それなのに、グッドバイとマザースカイの2枚のアナログレコードはいまだに手元にある。
そんな中、1983年、新宿ロフトのライブを最後に森田童子は静かにギターを置いた。
それを気に留めた人さえ、そんなにいなかったと思う。
特に引退宣言なども残すこともなく、ひっそりと音楽の世界から身を引き、「みんな夢でありました」と普通の人の生活を送るようになった。 そこで森田童子は死んだのだ。
★1993年
ところがそれから10年後、彼女は再び脚光を浴びた。
バブル景気、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代で浮き上がっていた人々が地上に足を下ろし、内省し始めた1993年、あの「ぼくたちの失敗」がテレビドラマ「高校教師」の主題歌に使われたのだ。
ドラマを見た人たちが「あの歌手は誰だ?」ということで森田童子を再発見した。
その当時、僕はドラマのイメージが貼り付いてしまうことをとても苦々しく感じていた。
けれどもいま振り返れば、あの美しいメロディと彼女の声がより大勢の人の耳に届き、心に宿ったのは喜ぶべきことだと思う。
「ぼくたちの失敗」が大ヒットになり森田童子にスポットライトが当っても、そこには誰もおらず、空っぽのままだった。
現実の彼女は30歳で森田童子を辞めた後、結婚し、都内で主婦として暮らしてたようだ。
一度、あるルポライターが居所を探り当て、取材を申し込んだことがあるが頑なに拒否されたと言う。
その後、インターネットが発達しても、とうとう彼女の素顔も本名も公になることはなかった。
これほどの知名度の人間がここまでプライバシーを守り続けられたのは奇跡的なことだ。
★病気
「出たくないと」いう強い意志に加えて、僕は体調や精神状態があまり良くなかったのではないかと推測する。
10代の頃、大きな病気を患っていたというから、それがずっと残っていたのではないだろうか。
もし健康だったら、本人がいくら拒んでも周囲が何とか説得しようとあらゆる手段を講じて動くだろう。
少なくとも取材の一つ、二つは受けさせただろうと思う。
死因も心不全とのことだが、どこかでその病気が関係していたのではないだろうか。
あるインタビューで、病気のせいでまともな生活が送れず、高校を中退してブラブラしている時に音楽を始めた」といったことを話していたが、そのブラブラの中身は苦しい闘病生活だったのかも知れない。
そして死線を彷徨った経験と、学生運動をしていた友達との付き合いが曲作り、音楽活動に結びついた。
★子守唄
森田童子の歌は一般に「暗い」と揶揄されることが多かった。
けれども深刻度はさておき、孤独感や、悲しい・寂しいという感情を味わわない人間はいない。
彼女の独特の「ゆらぎ」を持った声はそこに感応し癒しを与える。
元気で明るい歌が心の傷を癒し、元気に、明るくしてくれるとは限らない。
また、僕たちはいつもどこかで死に怯えながら暮らしている。
いつか必ず訪れる自分の死、愛する人の死、大切な人の死――
光の届かない奥底の暗闇に、僕たちの心の中の小さな子供はぶるぶる震えている。
童子の歌はその子を優しく慰めてくれる母の子守唄だ。
あの少女のような甘く透き通った声は、母の声でもあるのだ。
時々発作的に聴きたくなるのはそのせいなのかもしれない。
★夜想と狼少年
実は最後の2枚のアルバム「夜想」と「狼少年 WolfBoy」はかつては一度も聴いたことがなくてYou Tubeで初めて聴いた。
時代に合わせようと彼女が(というよりスタッフが)苦労しているのが見て取れる。
サウンド的にプログレっぽくしたり、テクノポップみたいな味を加えたり、ワルツのリズムを採り入れてダンスミュージックに近づけようとさえしている。
歌の語り口の定型だった「ぼく、きみ」を辞めて「わたし、あなた」にした曲もあり、それまで隠されていた女の部分が見えてドキッとする瞬間もある。
いま聴いてみて僕はけっこう好きになったが、「グッドバイ」や「マザースカイ」の童子節を愛するファンにとってはどうしても違和感を感じる作品だろう。
彼女自身も違和感を覚え、納得できない部分が多くあったのではないだろうか。
そして、ここまでして音楽の世界で生き残るつもりはない、と去ることを決意したのだろうと想像する。
★普遍
訃報に出会って以来この10日ほど、夜な夜な彼女に関する音源、映像、ネット上の記事をあちこち見ていた。
その中に5年ほど前に投稿されたものだが、12歳の女の子が「ぼくたちの失敗」を歌っている動画があった。
おそらく自宅のリビングだろう、暖かい陽の当たる部屋で自分でギターを弾きながら、あどけない声で明るく軽やかに歌っている。
過去の思い出を愛おしみながら別れを告げ、笑って旅立とうとしている少年少女の情景が浮ぶようだ。
童子の歌がこんなふうに響いてくるなんて不思議で新鮮で、ちょっと感動した。
森田童子という歌手の存在は1970年代の構成要素であり、あの時代の空気を知る者が共有できる世界であり、それ以外の聴き方は難しいのではないか。ずっと思っていた。
が、どうもそうではない。
彼女の孤独、悲しみ、寂しさ、絶望、死をテーマとした歌の数々は、その多くがかなり普遍的なものであり、貴重なものであり、むしろこれから大事にされていくのではないかと思うようになった。
ぼくたちの時代の子守唄は未来へも繋がる。
最後に、森田童子さんのご冥福をお祈りします。
そして最期まで秘密にした素顔と本名、プライバシーが今後もけっして暴かれることのないよう祈るばかりです。
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