食育などでは肉も魚も野菜も、いのちをいただくのよと、子供に教えている。
それは正論だけど、僕は動物のいのちと植物のいのちはちょっと違うものなのではないかと考える。
僕は子供の頃、肉が食べられなかった。
ハムやソーセージなどの加工肉はいいが、そのままの豚や牛や鶏の肉は全然ダメで口にできない。
煮物や炒め物などに入っているといつも避けていた。
当時の大人はまだ肉食文化のアメリカに負けたという敗戦コンプレックスが強烈に残っていて、こっちも肉を食ってリベンジしたいという思いが潜在的にあった。
そこに肉を食べない豆腐小僧みたいな男児がいると、あからさまに腹を立てた。
勉強なんかできなくたって、ガツガツ肉を食う元気な男児がよしとされたのだ。
というわけで毎日、給食の時間は絶望的な気分になっていた。
一方、家では母親が、僕が肉を食えないことに対して「連想するんでしょ」と言っていた。つまり肉片から牛や豚や鶏のまんまの姿を思い描いてしまい、それで食えないというのだ。
その時はそんなことはないよと思っていたけど、今考えると母は正しかったのかも知れない。
哺乳類でも鳥類でも、肉を食べるということは、同族とか仲間とは言わないまでも、かなり自分に近い存在を殺して食べるということ。
人間のいのちと動物のいのちは、ほぼ同じレベルに属するのだ。
なので食べるには抵抗感がある。
もしかしたら抵抗感を感じるということが、人間と動物の違いであるとも言える。
でも植物はちがう。
人間や動物より下等なのではない。逆だ。
植物のいのちはより上等、高次元にあるのではないか。
天上と地上の間、神さま(的な存在)と動物の間にあると言えるかもしれない。
あるいは地球という大地と、そこで活動するすべての動物との媒介者と言ってもいいかの知れない。
植物は惜しげもなく「恵み」として自分の身を与え、生命活動の成果物を与える。
だから人間も感謝しこそすれ、その恵みを受け取ることに抵抗は感じない。
草食動物はもとより、それを食べる肉食動物も、そして人間も、食物連鎖の基盤であり、神さまにより近いいのちを持つ植物に生かされているのかも知れない。
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