今年読んだ一冊。 村上春樹の「騎士団長殺し」。
村上作品の中で最も子供の存在がクローズアップされた作品と感じた。
「海辺のカフカ」は15歳の少年が登場するが、こちらは子供というより自ら主体となって物語の中で動く主人公――主体であり、いわば冒険する若者だった。
片や「騎士団長殺し」では客体としての子供が強調されている。
なので正確に言うと、「子供に対する大人の気持ち」がテーマと言えるのかも知れない。
それを象徴するのは免色渉(めんしき・わたる)という登場人物である。
髪が真っ白な50代の男で、小田原界隈の豪邸に住み、銀色のジャガーに乗っている。
頭脳明晰で、常に筋トレをしているので年齢の割に身体能力も高い。教養もあって礼儀正しく、料理や家事もうまく、何でもこなせてしまうジェントルマン。
それも 単なるお金持ちでなく、おそらくはIT関係ビジネスの成功者で、「こうすればうまくいく」とか「免色流成功法則」とかいったビジネス書・自己啓発書の一つや二つは出していそうだ。
まさしく若者も中高年も、現代の人たちが皆、ああなりたいと目標にするような人物、こういう人とお近づきになりたいと願う人物――要するにカッコいいトレンディな男なのである。
ところがこの世間的には申し分ない男が、内部にとんでもないカオスを抱えている。
人生のある日、彼は自分のオフィスで急に姿を現した恋人と交わる。
その時を最後に彼女とは二度と会えず、別れてしまったのだが、のちに妊娠・出産していたことを知る。
しかし、彼がそのことを知った時、彼女はすでにこの世におらず、13歳の美しい娘が残されていた。
生まれた時期から逆算すると、その娘は自分の子供に違いないと考えるのだが、確かめる手段がない。
いきなり現れて自分が父親かも知れないから、とDNA鑑定しろと言うこともできない。
やや下賤な言い方をすると、彼は発情したメスに種付けをさせられた。
しかし、生まれた子が本当に自分の種からできた子で、自分の遺伝子を宿しているのか、つまり自分は未来に繋がっていけるのかどうか、底なしの不安に陥ってしまったのだ。
人がうらやむほどの富とステータスを持ちながら、その自分の娘と思しき13歳の少女に対する執着心は、ほとんどストーカーのそれである。
普通なら人生で人が求めるもののすべてを得ているのに、それらすべてよりはるかに重いものを手に入れることが出来ず、心に大きな穴があいてしまっている。
それを埋めるべく、あの手この手を使い、主人公もその手段の一つにされる。
こうした免色のアンバランスは感情と行動が、絵描きである主人公の人生が絡み合って、奇妙な日常とその下――潜在意識の世界との両面でドラマが展開していく。
そこにはいろいろなテーマが読み取れるが、中心に「子供」があることは間違いない。
出てくる子供は、この13歳の少女と、主人公の、まだ言葉も喋れない幼い娘の二人。
どちらも女の子で、出番が特に多いわけではないが、とても印象付けられる。
子供が劇中に出てくると、不思議と良い意味での「余白」を感じる。
その今生きている人間が知り得ない余白が未来を想起させ、イメージを広げるのだ。
この間も書いたけど、やっぱり人間は、子供がいない世界、子供がいない状況に耐えられないのだろう。
問題は血のつながりにこだわって血縁でないと許せないのか、そうでなくもっと鷹揚に子供を未来として考えられるのか。
村上さんもあと何本長編を書けるだろう・・・と漏らした、と聞いている。
体も相変わらず鍛えておられるようだし、まだまだ何本も書いてほしいけど、年齢的に子供の存在、今の世界との関係性が気になっているのかも。
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名無し (月曜日, 29 4月 2024 22:03)
免色はそもそも匿名性を重要視しており、自分の名前で本を出すようなタイプではないのでは?
読みが浅いというより読んでいないのでは?