スマホを一生懸命いじくっている人を見ると、つい「何か良いニュースは入っていますか?」と訊きたくなる。
さすがに街中で見ず知らずの人にいかなりそう問いかける度胸はないが、知り合いだと、しばしば実行している。
「うれしい知らせは来ましたか?」
「すてきな情報をゲットできましたか?」
「心あたたまる良いニュースはありますか?」
「幸せになる話は見つかりましたか?」
「吉報はありましたか?」
そんなふうに訊くと、みんな一様に戸惑ったような表情を見せて
「いや何も・・・」
「とくにこれといって・・・」
「ぜんぜん」
「ありません」
「べつに・・」
といった曖昧で、なんだか冴えない返事が返ってくる。
一度も「はい」とか「うん」とか「来たけど秘密だよ。ウシシ・・」
といった楽しいリアクションに出会ったことがない。
良いニュースがないのなら、寸暇を惜しんでそんなに一生懸命見なくてもいいのに、と思うが、また次の瞬間には目を画面に戻して、再びいじくり出す人が大半である。
これはかなり不可思議な現象だ。
そう思っていろいろ考えてみると、これはもしかして喫煙に近い性癖なのではないかと思い至った。
煙草の場合はつい口寂しくて、スマホの場合はつい手持無沙汰で、その行為で心のすき間を埋めようとする。そうするとストレスも軽減されるような気がする。
要するに軽い中毒症状である。
煙草を吸っている人に「おいしいですか?」と訊くと、やっぱりたいていは
「いや、べつに、とくにこれといってうまくもないけど・・・」
みたいなリアクションが返ってきて、
「いや、そろそろやめようと思っているんだけどね」
なんて心にもないことを言いだす。
昔はちょっと違ってた。
自分はタバコを愛している、という人は多かった。
「おいしいですか?」と訊くと、
「あたりめーだ。これが俺の生きがいだ!」ぐらいの啖呵を切るような人は、結構いたと思う。
かく言う僕も啖呵は切らないまでも「うん、うまいよ!」ぐらい明快に応えたはずだ。
僕がタバコを吸うようになったのは、周囲のいろいろな影響があるけど、大きな要因の一つとして松田優作のことがある。
中学生の頃にテレビドラマ「太陽にほえろ!」で、松田優作演じる「Gパン刑事」が活躍していた。
Gパン刑事は職務中に殉死するのだが、その最期が壮絶だった。
彼は悪んの組織から一人の男を助け出すのだが、その男は恐怖のあまり錯乱状態になっていて、自分を助けてくれたGパン刑事を誤って撃ってしまうのである。それも何発も。
Gパンン刑事は一瞬何が起こったのか、わけが分らないのだが、激痛のする自分の腹に手をやると、その手がべったりと血に染まっている。
その自分の手を見た彼は
「なんじゃ、こりゃあ!」と夜の闇の中で叫び、そのまま倒れ込んでしまう。
そして仰向けになって、もう自分は死ぬのだということを悟る。
どうして彼がここで、こんな形で死ななくてはならないのか?
自分が救った人間になぜ裏切られ、なぜ撃たれるのか?
1970年代前半の映画やドラマは、そうした人生の不条理を表現した作品、「人生に意味や目的なんてねーんだよ」とニヒルにうそぶくような作品が多く、当時の少年や若者はそこのところに心をわしづかみにされた。
でも考えてみれば、人生も死も不条理に満ちているのは当たり前で、時代に関係なく、いつでもそうなのだ。
それで話を戻すと、死を悟ったGパン刑事は震える手で懐中から煙草の箱を取り出す。
そして最後の力を振り絞って、タバコを1本取り出し、口にくわえ、火を点ける。
やっとの思いで一服し、それで力尽きるのだ。
死に瀕してまで吸いたいという、Gパン刑事のタバコへの偏愛が、僕がスモーカーになった大きな一因であることは間違いない。
それから40年以上が経過し、この殉職シーンは、松田優作のキャリアの中でも名場面として数えられていると思うが、たぶん現代ではこういったシーンは観客に受けないし、優作のようなタバコが似合う俳優もいない。
そもそもドラマとして成り立たないのではないかと思う。
そこで僕の頭に浮かんだのは、eパン刑事の殉職である。
暴漢に撃たれたeパン刑事は、自分の死を悟り、震える手を懐中に突っ込む。
それで彼が取り出したのは愛用のスマホだ。
彼は最後の力を振り絞ってスマホを見ようとする。
そこで僕が声をかける。
「何か良いニュースは入ってますか?」
「いや、べつになにも・・・」
その言葉を残して、eパン刑事は息絶える。
現代の死の不条理。
これはこれで感銘のある、味わい深いラストシーンではないかという気がする。
(そんなことない?)
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