●レノン=オノの衝撃度
前回(22日)日の続き。
あの番組で僕がちょっと驚いたのは、最後に「Imagine」がジョン・レノンのソロ作でなく、オノ・ヨーコさんとの共作であったことをアメリカの音楽出版社協会が公認した――ということをNHKが電波に乗せて堂々と言ってしまった、ということ。
「それがどうした?」という声が聞こえてきそうだけど、ビートルズを愛し、よく知っている人達にとっては、これってけっこう大事件ではないだろうか?
ビートルズ解散後のジョンの音楽活動は、「Imagine」という超名曲をで持っていたところがある。
想像してごらん。「Imagine」を歌うことのなかったジョン・レノンを。
ウィングスを作ってガンガンヒットを飛ばしていたポールや、ビートルズ終盤からがぜん注目を集めるようになったジョージに比べて、相当見劣りしていたはずだ。
実際、低迷したり沈黙していた時代が長く続き、作品の量も少ないし、全体的に質もイマイチだ。
それでもジョンが偉大でいられたのは、20世紀を代表する歌の一つ、と言っても過言でない「Imagin」を作ったからだ。
でもそれが、オノ・ヨーコとの共作だったと言われたら、昔ながらのビートルズファンはかなり複雑な気持ちになるのではないかな。
、彼らはオノ・ヨーコをあまり好きでないから。
かの有名なフレーズ「想像してごらん」は、以前にヨーコさんが自費出版で出した詩集に載っていたものである。
言ってみればパクリだけど、夫婦間ならそれも許されるというわけで、番組内でも彼女は「あれはジョンへのプレゼント」と語っていた。
●ポールの申し出を断った話
余談になるけど、今世紀になってから、ポールがヨーコのところにビートルズ時代のレノン=マッカートニー名義の曲のいくつかを、自分一人の名義に変えてほしい。もちろん、ジョンが一人で作った曲はジョンの名義にして・・・と言ってきたことがあったらしい。
前回も書いたけど、ジョンとポールが作った楽曲は、表向きはすべてレノン=マッカトニー作品、すなわち共作ということになっている。
ビートルズのスタート時、若き二人の天才は本当に一体化して音楽づくりに熱中していたので、そういう取り決めをしたわけだ。
事実、どっちが歌詞と曲のベースを作って、二人でアイデアを出し合い、アレンジしてその作品を膨らませ、磨き上げるという形で共同作業をしていたらしい。
でも、特に中期以降はほとんどそれぞれ別々に作ることが増え、もはや共作とは言えなくなっており、基本的にジョンのヴォーカル曲はジョン作品、ポールのヴォーカル曲はポール作品ということになっている。
けれども、そのポールの申し出をヨーコははねつけ、認めなかった。
もちろん、ジョン単独の曲もレノン=マッカトニーのままだ。
最後にポールは「じゃあ、せめて『イエスタデイ』だけでいいから、僕の単独曲ということにしてくれないか」と折れたのだが、それにも彼女は肯かなかった。
1966年の日本公演でも、この曲の時は他の3人は引っ込み、ポールが一人でギターで弾き語ったという、明らかにポール作品なのだが、それでもダメだというのである。
僕も最初にその話を読んだ時は、どうしてそこまで頑ななのか、理解に苦しんだ。
そこまでして著作権に固執するのか、財産なんか十分すぎるほどあるだろうに・・・と。
でも違うのだ。
権利とかカネの問題ではなく、彼女の中には彼女なりの仁義があり、いくら頼まれてもそれは曲げられないのだと思う。
おそらくジョンが生きていれば、ポールの申し出に「OK」と言った可能性は高い。
が、いかんせん、この世にいない以上、彼の気持ちはもう聞けない。
いくら相続人とは言え、本人から気持ち・意見を聞けなければ、そのままにするしかない・・・というのが彼女の見解なのだろう。
●昔ながらのビートルズファン
さて、ここでいう「昔ながらのビートルズファン」というのは、リアルタイムでビートルズを体験した人たち――僕より10~15歳くらい上の、ベビーブーマー世代、日本で言えば団塊の世代を中心にした人たちだ。
このカテゴリーの人たちの中で、ヨーコさんに好意的な人は、少なくとも僕が直接知っている中にも、メディアを通して情報を発信する評論家・専門家・ラジオDJなどの中にも、ひとりもいなかった。
彼らはヨーコさんを「ビートルズを崩壊させた魔女」といって憎むか、でなければ、その存在を無視し続けた。
「あの人はミュージシャンでもアーティストでもない、たんなるイベント屋さんですよ」という人もいた。
ジョンの死後も彼女の評判は相変わらず芳しくなく、権利金の問題にいろいろうるさいとか、前妻シンシアさんとの息子であるジュリアンに、つい最近までジョンの遺産を分配しようとしなかったことなどもバッシングの対象にされた。
お金の問題が多いのは、人々の中に「なんであれだけカネがあるのに・・・どこまで強欲な女なんだ」といった、口には出しては言えない嫉みがあるからだと思う。
●憎まれる条件
番組を見て思ったのは、このオノ・ヨーコさんは、人から憎まれたり、嫉まれたり、疎んじられる条件の揃った人だったんだなぁということ。
条件①:日本人(アジア人=有色人種)である
1960年代の欧米社会では、まだまだカラードに対する差別意識が強かった。
当の日本人の方も、お洒落でハイソな欧米ライフスタイルをめざしてがんばっていた時代だったので、欧米に対するコンプレックスが強かった。
条件②:女である
女性蔑視もまだ強く、女はかなり見下されていた。
才能がある上にでしゃばってくるような女は、男たちの嫉妬と陰湿ないじめを受けることが多かった。
条件③:主張する自己がある
①②でも、従順で可愛ければ許されたが、彼女は欧米人以上に積極的に自己表現し、社会 に相対していた。「東洋の神秘」でなく「ただ不気味」で、魔女呼ばわりもされた。
条件④:お金持ちのお嬢様である
これにはむしろ同じ日本人のほうが反感を持った。みんな貧乏で「ブルジョア憎し」みた いな気分が蔓延していた。
「めざせ憧れの欧米ライフスタイル」の人々を尻目に、生まれた時からお屋敷で欧米ライフスタイルを送っていた彼女が妬まれないはずがなく、「金持ちが道楽で芸術ごっこをやっているだけじゃん」と捉えられた。
1960年代はやたらもてはやされることが多いけど、現代ではあからさまな差別と思われることが、欧米・日本、どちらの社会でも、まだまかり通っていたのである。
いわばヨーコさんは当時の社会にあって、完全に異分子だった。
●女に弱いジョン・レノン
じつはジョン自身は生前、「Imagine」がヨーコの影響が強く、共作のようなものだ・・・と発言している。
けれどもマスコミはじめ、周囲がその発言を無視した・・・とは言わないまでも、あまり重要なことと捉えていなかったような気がする。
でないと、われらがスーパースターであり、ワーキングクラスヒーローであるジョン・レノンの輝きが薄れる。
そんな社会的心理が働いていた。
つまり、バッシングや無視することで、彼女の存在を否定してきた人たちにとって、あの神がかり的名曲が、ジョン・レノン作でなく、レノン=オノ作として認められてしまったら、それまでの批判がただの悪口だったということになってしまい、かなり都合が悪いのだ。
ソロになり、バンドのボスの座を失って、ひとりぼっちのガキ大将みたいになってしまったジョンには心の拠り所が必要だった。
そういう意味では、パートナーであるオノ・ヨーコはプロデューサーでもあり、ソロのジョン・レノンは彼女の作品だった、と言えるかも知れない。
いずれにしても彼のヨーコさんに対する精神的依存度はかなり大きかったと推察する。
若い頃は社会に反逆し、挑戦的な態度を取り続けてきたジョンは、そういう女性に弱いところのある男だった。
そのことは前妻のシンシアさんも著書「わたしが愛したジョン・レノン」の中でも指摘している。
幼少の頃、母親がそばにいなかったために、厳しい叔母の世話を受けることが多かった彼は、自己のしっかりした強い女に惹かれる傾向があったのではないか・・・と述べている。
なんだかオノ・ヨーコを一生懸命弁護して、ジョン・レノンを貶めるような文章になってしまったけれど、僕は相変わらずジョンのファンである。
今回のテレビ番組を見て、いろいろ考えてみたら、ますますジョンのことが好きになってしまった。
彼をヒーローだの、愛の使者だのと褒め讃え、信奉する人は多いけど、僕はその根底のところにある、彼の弱さ・情けなさ、さらにズルさ、あざとさなどの人間的なところが大好きだ。
そして、そこから20世紀の大衆精神やマスメディアの功罪も見て取れる、彼はそんな稀有なスターなのだ。
●これも終活?
というわけで今回、「Imagine」が発表後47年目に、レノン=オノ作として広く認められることになったのは、とてもめでたいと思います。
でも、これってアメリカの音楽出版協会のいい人ぶりっこかもしれない。
ヨーコさんももうご高齢だし、病気を患ったという話も聞くので、最期に花を持たせてやろうか・・・・ということで認めたのではないだろうか?
想像してごらん。彼女が終生認められずに他界してしまったら・・・。
長らく彼女を攻撃してきた人々が、彼女の最期を想像し、良心の呵責に耐えられなくなったということなのかもしれない。
本当に人生、長く生きていると何が起こるかわからない。
ヨーコさんもこのことは全然期待していなかっただろうし、彼女自身が働きかけたことではないけれど、これも一種の終活なのかな、と感じます。
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