●ジョンとヨーコの出会い
昨日、未来食堂の「Yes」=相手を、自分を肯定し、受け入れる理念について書いたら、ジョン・レノンとオノ・ヨーコも「Yes」という言葉で出会ったことを思い出した。
60年代半ば、ロンドンで開かれていたヨーコの個展にジョンがふらりと立ち寄る。
自分ではしごを昇って行くと、天井に小さな文字が何か書いてある。
そこに備え付けられていた虫眼鏡で見ると、その文字は「Yes」。
このエピソードはよく知られているけど、どうしてそれでジョンがヨーコに強烈に引き付けられたのか、その3文字が、この時のジョン・レノンにどれだけ強烈に響いたのか、あまり語られることがないようだ。
●前妻の著書「わたしが愛したジョン・レノン」から推察するジョンの危機
それについて考えるヒントは、皮肉にもジョンの前妻のシンシアさんが10年ほど前に出版した手記「John(邦題;わたしが愛したジョン・レノン)」に書かれている。
60年代半ばはビートルズの絶頂期。
アイドル時代を超えて、斬新な作品を次々と生み出し、ポップミュージックの概念を塗り替えていった時期だ。
けれどもジョンは行き詰っていた。
ビートルズは紛れもなくジョンのバンドであり、彼の才能が全開した初期のけん引力は凄まじかった。
しかし、だからこそ彼はひしひしと感じ出していた。
ポール。マッカートニーの脅威。
ビートルズを作った時から彼はポールの才能をすごいと認め、自分と組めば素晴らしいことが起こると信じていた。
そして、それは見事に実現した。
けれども同時に怖れてもいた。
いつかポールにビートルズの主役の座・ボスの座を奪われるのではないか、と。
他の誰もそんなことは気づかなかったかも知れないが、唯一、ジョン自身だけはわかっていた。
その時がすぐそこまで来ているということを。
シンシアさんの本によれば、67年頃から次第にジョンは曲作りにおいてドラッグの助けを借りることが増えていたという。
事実、この年の夏に出した「サージェント・ペパーズ」あたりから、徐々にビートルズの楽曲は、ジョンの作品よりもポールの作品の方が質・量ともに勝っていく。
早熟の天才で、ずっと先を走っていたジョンを、追ってきたポールがとうとう捕らえたのである。
(最初の取り決めで、ジョンとポールが作った楽曲は、表向きはすべてレノン=マッカトニー作品、すなわち共作ということになっているが、ごく初期の頃はともかく、中期以降はそれぞれ別々に作っていた)
●オノ・ヨーコの哲学・芸術の結晶
あれだけ成功していたのに信じられないことだが、ジョンは非常に繊細な人なので、当時、自分の音楽家としての未来に非常な不安を抱えていたのではないか。
ドラッグは当時、ロックミュージシャンの常識みたいなところがあって、みんなやっていたかも知れないけど、ジョンの場合、そのままだと溺れてしまうほど、急激にのめり込みつつあった。
自分もいっしょにドラッグを勧められ、シンシアさんはかなり心配していたようだ。
ちなみに彼女は、ジョンとの青春とビートルズ黄金時代のこと、その後の離婚の悲劇、彼の死後も続いたヨーコとの確執を綴ったこの本が。まるで遺書だったかのように、出版の数年後にガンで亡くなっている。
話を戻して、
そんなやばい状況で出会った、ヨーコの提示する「Yes」の3文字は、いえわるスピリチュアル系でよく出てくる「宇宙の引き寄せ」みたいなものだったのかも知れない。
この「Yes」をどう解釈したのか分からないが、ジョンにとって、生まれ変るほどの響きがあったのに違いない。
オノ・ヨーコの哲学と芸術は「ビートルズのジョン・レノン」を木っ端みじんにしてしまったのだ。
●オノ・ヨーコさんの「ファミリー・ヒストリー」
・・・というふうに考えたのは、録画してあったNHKのオノ・ヨーコさんの「ファミリー・ヒストリー」を見たからです。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804134/
オノ・ヨーコさん84歳。1969年にビートルズのジョン・レノンと結婚、数々の共作を残している。前衛芸術家、平和活動家としても活躍してきた。ヨーコさんは、息子ショーン・レノンさんに自らのルーツを伝えたいと、出演を決めた。祖父は日本興業銀行総裁、父は東京銀行の常務取締役を務めた。また、母は安田財閥・安田善次郎の孫にあたる。激動の時代を生き抜いた家族の歳月に迫る。収録はニューヨーク、73分特別編。
ヨーコさんは息子のショーンさんが自分の家族のことを知ってもらえれば・・・ということでこの番組を承諾したと言います。
●家族の歴史から生まれた、半世紀進んでいた前衛芸術
番組では幕末からのヨーコさんの家族の歴史が綴られており、とても興味深く観ました。
それは日本が近代的文明国家になっていく歩みとシンクロしていました。
いわば彼女の家系は、日本が世界と渡り合う歴史の最先端にいたのです。
そしてまた、そんな歴史のもとに生まれ育ったから、ヨーコさんのあの前衛芸術が生まれたのだろうなぁとも感じました。
彼女が表現する芸術、その奥にある哲学は進み過ぎていて、半世紀前は、日本の大衆も英米の大衆もついてこれなかった。
現代なら多くの人が普通に受け入れられるだろうと思うけど、1960年代にはまだ、風変わりでエキセントリックな有色人種の女が、奇妙奇天烈な、これ見よがしのパフォーマンスとしか受け取られなかったのだ、と思います。
「Yes」と言い続ける彼女に対して、大半の人が「NO」と言った。
そんな時、自己喪失の苦境に喘いでいたジョン・レノンだけが、彼女の訴えるささやかな「Yes」をまともに受け止めることができた。
ジョンがいなくても彼女の思想は変わらなかったかも知れないが、やはり彼と結びついたことで広く彼女の考え方が世界に知られるようになったのは確かです。
ただし、それは誤解に満ち、彼女はその後の人生全般にわたって大きな代償を払うことになりますが・・・。
●なんで今、イマジンが・・・
この番組は本当にいろいろなことを考えさせらました。
どうしてヨーコさんがあれほど嫌われ、憎まれてきたのか。
ジョンのソロになった後の代表曲「イマジン」が、ヨーコさんとの共作だったということを、どうして今ごろ(2017年6月)になって、アメリカの音楽出版社協会が公認したのか。
かなりクリアに分かった気になりました。
このあたりの話をやり出すと、どんどん長くなってしまうので、今日はこのへんで。
この続きはまた明日。(書けるかな?)
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