●子供の僕の中にも大人がいた
中年を超え、息子がほぼ成人したころから、自分の子供時代のことをよく思い越すようになりました。
齢を取って懐古趣味に陥っているのか?
それもあるけど、そこで止まっていたら、ただのノスタルじいさんだ。
そこから進んで掘り下げて考えると、おとなになった自分の中に子供がいるのを感じるのです。
でもこれは普通のこと。
大人は誰しも子供だった経験があるのだから。
もう少し思いをめぐらすと、子供だった頃の自分の中にも大人、もっと言えば老人の自分もいたのだなぁと気付きます。
人間の魂には時間の流れは関係なくて、最初から一生分が丸ごと詰まっている。
●潜在意識と物語
ただ当然ながら、子供や若者の頃には、成長後のことは潜在意識の中に入っていて、普段は見ることが出来ません。
それが何らかのきっかけで、深海の暗闇を潜水艦のサーチライトが照らし出すように、潜在意識の奥にあるものが垣間見える瞬間がある。
そのきっかけとなるものはいろいろとあるけど、最もわかりやすいのが言葉や絵で表現されている文学や絵本です。
特に昔から伝承されている神話とか民話の中には
「こんなの、子供に聞かせて(読ませて)いいのか?」
と思うような、エログロなものが結構あります。
主人公が残酷に敵を殺したり、不条理に殺されたり、食べられちゃったり。
また、現代の児童文学でも、単なるハッピーエンドで終わらず、そうしたエッセンスをうまく採り入れているものも多々あります。
だから子供向けの本でも優れた作品は、やっぱりどこかで大人っぽい。
大人が読んでも面白い。
僕たちを取り巻く現実はハッピーエンドばかりじゃありません。
かと言って、現実を見ろ!と、生々しいドキュメンタリーやノンフィクションをわざわざ見せつければ、却って子供は目を塞いでしまうか、心にひどい傷を負ったり、大人や社会に対する大きな不信感を抱きます。
そんなときに「物語」が活かされる。
そうした物語に触れて、子供は成長後のことを悟り、人生の厳しさ・不条理さに対する心の準備をしていくのかも知れない、と思うのです。
●大人と子供のコラボで生きる
中年を過ぎると、遠くからひたひたと「終わり」の足音が聞こえるようになります。
そうなると、今度は「過ぎ去った子供」がブーメランのように戻ってきて、
「さあ、いっしょにこれからの展開を考えながら、どうまとめるか決めていこうか」と囁きます。
葬儀業界では「エンディング」がすでに一般用語になっているけど、これも言ってみれば、ロングディスタンスのエンディングプラン?
大人の僕はお金のことや毎日の暮らしのせこいことばかり考えているけど、子供の僕はそうした現実べったりのこととは違う、夢とか愛とか地球とか未来とか、何かもっと生を輝かせることを考えてくれるのです。
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