他人のメガネをかけ、靴を履いてみることについて

 

 子供の頃、ふざけて父の眼鏡(近眼)をかけたり、靴を履いたりしたことがありました。

 

 もちろん、目の前がクラクラして、周りの世界はゆがんで見えるし、

ブカブカの靴ではまともに歩くことが出来ません。

 

 それでもなんだか楽しくて、その見えない世界・歩けないことを面白がっていました。

 

 人の立場に立って物事を考えようというときに、よく「他人のメガネをかけてみろ」とか「他人の靴を履いてみろ」と言います。

 

 理屈はわかります。

 というか、そんなことはナンチャラ講師やカンチャラコンサルタントのご高説を賜らなくても大丈夫。

 ついでに言えば、それくらいのことだけなら僕でも助言できます。

 

 問題はどうしたら、他人のメガネをかけられるか・かけてまともに周囲を見られるか、

 どうしたら、他人の靴を履けるか・履いて一歩でも二歩でも歩けるか、です。

 

 その肝心なところは、ナンチャラ講師もカンチャラコンサルタントも教えてくれない。

 というか、きっと誰も教えられない。

 

 何らかの取引の際に、相手の立場に立ったら、得するか損するかくらいは分かるけど、人間、けっして単純な損得勘定だけで生きているわけではありません。

 

 家庭や仕事に問題を抱えているかもしれないし、人に言えない秘密も山ほど抱えている。

 自分でも意識していないう嗜好・性癖だってある。

 

 目に見えるのはほんの一部で、見えないところには莫大なバックグランドがある。

 

 他人を完全に――いや、半分でも理解しようなんて、理想であり、幻想です。

 

 いや、何かすごい秘術や超能力を持っていて、本当に他人のメガネをかけられる人・靴を履ける人はいるかもしれない。

 けれども凡人にはそんな神がかりなこと真似できません。

 

 僕らにできるのは、せいぜい他人のメガネや靴を身に着けるのを不快がらず、面白がるのが関の山なのではないだろうか。

 

 目の前はクラクラするし、いざ足を突っ込んだとしても、とても歩けたものではないけど、それでもどこかに頭をぶつけようが、転ぼうが、面白がってやってみるしかないのではないだろうか。

 

 そうしているうちに、ちょっとは他人のメガネで見えるようになってくるし、一歩でも二歩でも歩けるようになるかも知れない。

 

 他人に対する理解・本当の意味での共感は、そこからしか生まれないのではないかと思うのです。