村上春樹の初期作品を再読する:「風の歌を聴け」に潜む21世紀の僕ら

 

 最近、むかし読んだ本を再読したいと思うことが多くなりました。

 一度だけ読んだもの、遠い昔に読んだものは忘れてしまっているのです。

 忘れたものなど、さして自分にとって重要でないので、基本的にそのままほったらかしでいい、そうでなきゃ人生、いくら時間があっても足りないのですが、「あれはいったい何だったんだろう・・・」と思えるものがいくつもある。

 もう一度、目を通さなくてはいけないと駆り立てられ、1年ほど前から、それまで何十年もほこりをかぶっていた本を開いています。

 

 村上春樹の初期作品を読み始めたのは昨年の12月からで、読み始めるとすぐ「騎士団長殺し」という新作長編のリリースが発表されました。そういえば発売はもう今週末(2/24)です。

 おそらくまたひと騒ぎあるでしょう。

 新作長編を出すたびにニュース番組で採り上げられる作家は、村上春樹をおいて他にはいません。

 

 40年近く前、デビューした時、こんな世界的作家になると想像できた人はほとんどいないでしょう。

 デビューしてしばらくの村上春樹は、当時、バブル前夜の「ビンボー日本が終わり、金持ち日本が始まる」といった時代の空気を象徴する、流行作家・風俗作家――世間の評価もそんな感じだったし、僕の印象もそうでした。

 

 全体に軽く、乾いていて、いろんな商品のブランド名が散りばめられ、ちょっと知的なワードも埋め込まれ、なんとなくポップでナウい雰囲気が若者にウケている。

 

 それが村上春樹という作家のイメージでした。

 

 でも今回、デビュー作の「風の歌を聴け」を再読してみて、やはり当時、僕は上面しか読んでいなかったということを痛感させられました。

 

 ページをめくると、ぶわっと1980年代初頭の空気が吹き出し、なんとなく浮かれてたような気分が甦ってくる。

 文章の流れは小説というより散文詩に近く、キレのいいドライビールのような感じ。当時はそれがカッコよく、読む側はそれで終わっていた。それでいいと思っていた。

 

 だけど今読むと、その文章の裏・行間には、日本の経済が上り詰め、社会が熟した後―1990年代から今日にまで至る退廃、閉塞感、絶望感の萌芽のようなものが孕まれているのです。

 もちろん、のちの歴史を知っているから、そう読めるのでしょうが、。

 

 人間が長い旅路の果てにやっとたどり着いた豊かな現代社会が、あっという間に熟し、腐り、衰退していく。その裏に蔓延る、見えざる暴力・謀略。

 

 そんな中で、無力感に苛まれながら、なかば諦めたり、うんざりしながら、それでも一縷の望みを抱いてなんとか生きていこうとする「ぼく」「わたし」。

 でも、それを真正面からストレートに描いていたら、読む側も書く側もすぐにギブアップしてしまう。

 だから、ユーモアや一種のファンタジーのような要素を加えて表現する。

 

 いろいろスタイルを変え、メタファーを駆使し、バリエーションを増やし、スキルアップもしてきたけれど、そうした村上作品のテーマは、この約40年前の第一作から終始一貫していると思います。

 

 そして村上作品が日本のみならず、外国でも人気を博しているのは、彼の抱えるテーマが世界的に共通しているからでしょう。

 

 欧米各国でみずからのアイデンティティを守るために保護主義化の傾向が強まっているのは、成熟して腐り始めた世界をリセット・初期化したいという潜在意識の顕れかも知れません。

 

 たった40年で僕たちはずいぶん遠くまで来てしまった――

 この当時の村上春樹ならそんな書き方をするでしょうか。