酒・タバコ、やめて100まで生きたバカ

 

 若い頃、僕は近所のおじさんや兄ちゃん、職場の上役、頼りになる年上の人たちから、よくこのフレーズ(あるいは同じ意味の話)を聞かされました。

 

彼らは年代的には私の父の世代(昭和ヒトケタ生れ)から団塊の世代、また、そうした世代たちから直接影響された、現在の60歳あたりまででしょうか。

 

職業は、職人、飲食業、商店主、運送屋、肉体労働従事者、水商売、芸術家・芸能人くずれ、ヤクザまがいの人も。

学歴はたいてい高卒以下。

彼らは公務員やサラリーマン、インテリ系の人たち――いわゆるホワイトカラーの人種をあまり快く思わず、どこか小馬鹿にしているところがありました。

 

当時、世間知らずの青二才だった僕の目から見て、彼らは(全人格的ではないにしても)尊敬すべき大人たちであり、自分の能力・才覚で生活費を稼ぎだす独立者であり、日本を支える大衆であり、民主主義社会の中心であり、地に足を着けて生活する、愛すべき市井の人たちであり・・・

いわば親父や兄貴のような人生の先輩たちでした。

 

その親父や兄貴たちは僕をとても可愛がってくれるとともに酒や煙草を勧めてきました。

断ることは困難でした。

いっしょに酒を飲み、煙草を吸うだけで彼らの仲間入りをしたような気分になれました。

時にはギャンブルにも付き合いました。これについては金がないのを知っているので、強くは勧められませんでしたが。

 

「酒はやらない、煙草も吸わない、博打も打たない。それで人生いったい何が面白い?」

 

彼らは口癖のようにそうした話をして、ワハハと笑っていました。

昭和の男たちは酒も煙草も受け付けない男を、一人前の男として認めなかったのです。

彼らは飲めない男・吸えない男を陰で、時には面と向かって馬鹿にしていました。

そしていかにカッコよく飲むか、吸うかということにこだわっていました。

彼らにとってカッコよく飲み、絵になるように紫煙をくゆらせることは、どれだけ仕事ができるか、女にモテるかと同じくらいの価値があったのです。

 

だから昔の映画スターの、酒場で飲むシーン、煙草に火を付け、煙を吐くシーンは、めちゃくちゃサマになったのでしょう。

 

そうしたシーンに「男の人生」が凝縮され反映されていました。

 

僕はそうした価値観が優勢だった時代のかなり尻尾の方を体験したにすぎませんが、昭和の男の世界(おそらくそれ以前の明治・大正も)とは、そうした酒・煙草から紡ぎ出される文化と分かちがたく結びついていました。

 

「酒・タバコ やめて100まで生きたバカ」とは秀逸なキャッチコピーです。

長くこの世に留まっていようなんて考えちゃいない、太く短く生きるのだ、といった江戸っ子的な潔さ。

人生なんかやっていられるかってんだ、というような自虐的な雰囲気。

日本の庶民(男だけだが)の抱えてきた人生観が、このわずか十数文字に集約されています。

 

昭和の男たちから洗脳されて若い時分から酒・煙草をたしなみ、その文化を愛し、どっぷり浸かっていたにも関わらず、僕は41歳の誕生日にあっさり煙草をやめてしまいました。

 

その後、何度か吸いたい衝動に襲われ、時折、ついに吸ってしまった!と、今でもまだ鮮明に記憶しているリアルな夢を3回ほど見ました。

が、それは現実にはならなかった。

半年経ち、1年経ち、3年経つうちに煙草に対する欲望と、喫煙していい気分になっていた実感は体中から跡形もなく消え去って行ったのです。

 

時々、昔の恋人や古い友だちに会いたくなるように、タバコを懐かしむことがあります。

でもきっと吸ってしまうと、自分の身体が受け入れられなくてがっかりすることがわかっている。だから吸わない。吸えない。

 

健康診断の問診票に喫煙歴を書き込むとき、いつもこうして、おれもバカになって100まで生きるのかなと考えてしまうのです。