●息子の解説
息子がチビの頃はよくゴジラ映画に連れて行き、自分もいっしょに楽しんでいましたが、この10年くらいはさっぱり興味がなくなり、観る気がおきませんでした。
庵野監督が撮る、と聞いても「へ~、エヴァンゲリオンの完結編はどうなっちゃってるの?」という感じ。モスラやキングギドラなど、ほかの怪獣などとバトルすることのない、いわばゴジラ単独作品は、1954年(もう62年も昔だ!)のオリジナル作品を超えるものは作れないだろうと思っていたからです。
さて、大喜びでバトルものを観ていた息子が成人し、一人で「シン・ゴジラ」を見てきて感想を報告したのが7月末。
「中身を話せ」と話させたら、えんえん1時間ほど解説。それを聞いたらすごく見たくなりました。
最近、新しい映画だの小説だのは息子に紹介してもらって観ています。
親バカ丸だけど、彼の鑑賞眼はなかなかのものであります。
●シン・ゴジラ鑑賞
で、それから1ヵ月。遅ればせながらやっと観てきました。
日曜日の渋谷ということも関係しているのか、子供連れからオヤジ層まで観客の年代は幅広い。ただし、子供と言ってもあんまりオチビはいません。怖そうだしね。
さらに意外だったのは女性客が多いこと。カップルもいるが、女子同士のチームも結構いる。シニアな女子会の人たちまで来ている。怪獣映画を女子がこんなに見に来ているとはちょっとサプライズ。
てなわけで鑑賞記ですが、これは完全ネタバレ記事です。僕のようにネタを聞いてから観るという人でなければ読まないでください。
●超オリジナルな庵野ゴジラ
最初に言ってしまうと、これはオリジナルを超えている――ということはゴジラ映画の最高傑作。
いや、制作の時代背景が全く違うので、単純に比較なんかできません。
けれど、戦争も、戦後の荒廃と復興も知らない、そして原爆投下にいまいちリアリティを感じることができない、1960年代以降生まれの僕らの世代――もとい、同年代でもちゃんと感じとっている人もいると思うので、僕とします。
僕にとってはオリジナルバージョンよりも身体の芯に響いてきました。そこにはやはりあの5年前の原発事故を目の当たり(テレビやネットを通じてだけど)にしてしまった体験が効いているのでしょう。
なにせゴジラが放射能光線を吐くシーンで、これほどビビったことはありませんでした。建物が倒壊し、街が炎上し、人が殺戮される――それまでの秩序あるものが一発で崩壊する恐怖。
最近はアクション映画やスペクタクル映画が山ほど作られているし、テレビでもゲームでも、こうした爆発・炎上・壊滅シーンは見慣れています。いわばエンタメコンテンツにおいては日常茶飯事のようなもの。
けれどもこれだけ怖いのは、虚構の世界の出来事と割り切って考えられない何かが、僕ら、観客の内側にあるからだと思います。
●虚構を成立させるためのリアリティ
庵野監督自身も語っているように、ゴジラという壮大な虚構を成り立たせるためには、その周りは限りなく現実に近いものでなくてはなりません。
つまり、ウソはゴジラだけ。それに対する人間の反応・行動はすべて本物。
なので、こうした事態に対する政治システムの対応にしても、自衛隊の作戦・活動にしても、徹底的にディテールまでこだわって作り込んでいます。
まさしく魂は細部に宿る。
もちろん、東宝・ゴジラ・庵野秀明といったビッグネームがあって可能になることなのでしょうが、演出スタッフの取材力、その前提となる脚本のち密さ(実際に読んだわけじゃないけど、相当細かく書き込まれていると思う)には舌を巻きます。
実際、台本は通常の2時間もの映画の倍の厚さがあったとか。
セリフの量は膨大で、それを無数の俳優たちが聞き取れないほどのスピードで喋りまくる。
全体の3分の2くらいのカットには、これまた読み切れないスピードで、役職名付き人名や乗り物や武器などの名前、作戦名などがダブりまくる。
現実世界と同じく、高密度の情報の洪水が、ゴジラ襲来という異常事態を煽り立てるのです。
これまでのこういうスぺクタクル映画にありがちな、気休めの恋愛・家族愛・友情、あるいは息抜き用のちょっとしたお笑いなどの甘っちょろいシーンは一切なし。
息つく間もなくドラマはひたすらゴジラと人間の戦いに集中されます。 けれどもそんなハードな展開から、そのバックグランドにあるのであろう人間ドラマがにじみ出てくるのです。
●変態し、進化する
そして何と言ってもゴジラのキャラクター造形がすごい。
最初に出てくるのは手足がなく、ズルズルと地を這う、まるで陸に上がった古代の肺魚のような「幼体ゴジラ」。
心なしか、エヴァンゲリオンの使徒の中にこなのいたんじゃなかったけか?と思わせます。なんと、このゴジラはモスラのように変態し進化するのです。こんなの初めて。
魚のような真ん丸な目が印象的な幼体ゴジラは、生物としての意志も感情も何も感じさせません。ただ自分が生きるため、存在するために人間の作った街を破壊している感じ。
そして途中で立ち上がり、二足歩行する第3形態に変態して、いったん海へ引き上げます。
みんな、ほっと一安心と思ったら、今度は倍の大きさの最終形態となって再び東京へ上陸。 まるで大都市・東京から人間のエネルギーを吸い取って進化したようです。
●完全生物?地球の化身?
庵野監督は、ゴジラを「完全生物」と設定しています。
つまり、人類も含めた、太古から現代までの地球上のすべての生物の要素が結集した生命体が、核廃棄物を食べて実体化したのがゴジラというわけ。
最終形態になっても、やっぱり何の意志も感情も感じさせず、ただ破壊するだけ。けれども、けっしてマシンのようではない。
その奥底に「超意志」とでも言えばいいのか、通常の人間や動物の意志・感情を超えた、何か巨大なビジョンを秘めているかのように進んでいくのです。
1954年の、モノクロ画面の中の禍々しい原爆怪獣よりも、さらにいっそう禍々しく、そして神々しくさえ見えるゴジラ。
「ゴジラ」という名が「荒ぶる神」という意味付けがされるようになったのじは、いつごろからだか分かりませんが、この映画のゴジラはモンスターなどではなく、まさしく神と呼ぶのがふさわしい。でなければ「地球」の化身と呼んでもいかもしれません。
●日本ならではのイメージ
こうした発想は、八百万の神という概念を持つ日本人ならではのものではないかと思います。
神は妖怪になり得るし、妖怪は神になり得る。ゴジラ誕生の物語を考えれば、「核」もまた人類に巨大な力と、巨大な災厄をもたらす八百万の神の一つと言えるのでしょう。
そして、図らずもその災厄を体験してしまったことが、日本を「ゴジラのいる国」にしてしまったのです。
●ゴジラと共存する未来
ネタバレついでにラストもバラすと、対策チームは、ゴジラの身体組織を解析し、血液を凍結させる薬剤を開発。それを口から体内に投入してゴジラを「凍結」させます。
これまでの映画のように、海の底へ、あるいは宇宙のかなたに姿を消したりはしません。凍結したゴジラはまるで巨大なモニュメントのように東京のど真ん中に屹立します。
そこで主人公がそのモニュメントのようなゴジラを背景に一言セリフをこぼします。
「われわれはゴジラと共存して生きていかねばならない」――
ゴジラとの共存。災厄との共存。核との共存。あらゆる生物との共存。地球との共存。神との共存。なんだか矛盾している・・・矛盾との共存。
それが人類の未来であり、逃げられない世界なのでしょう。
目に見えないけれど、今そこに凍結したゴジラは存在しているのだ。そう思いました。
2016・8・30 TUE
コメントをお書きください