●修学旅行のお土産はコシヒカリ
コシヒカリだ!南魚沼産だ!うまいに違いない!
それってホントか?そう思い込まされているからそう思っているだけなんじゃないか?
これからの時代、固定観念に囚われていてはいかん!……
ということで食べてみたら、やっぱり最上級にうまかった!
うちの小僧さんの修学旅行のお土産である。
彼の通う中学では校外学習で継続的に食育を実践し、環境についても学ぶ。
3年生はその総集編として、修学旅行で米作りの農家に泊り込み、田植え体験をするのだ。
●農業体験旅行
ちなみにこうして農家に宿泊していろいろな農業体験をする旅行を「グリーンツーリズム」という。
発祥はヨーロッパで、日本では大体20年ほど前から行われているようだ。
実は僕はその黎明期に、仕事としてこのグリーンツーリズムのプロモーションビデオの制作に携わったことがある。北海道の酪農家から鹿児島の農家まで巡り歩き、いろいろ貴重な体験や美味しいものを食べさせてもらうなど、楽しく取材した。
農家の人たちにとって当たり前の日常は、都会人にとっては刺激的な非日常のワンダーランドなのである。
というわけで、小僧さんも泊めて頂いた農家でがっつり3日間食ってきたコシヒカリ。
わが家の常食はお値段第一のブレンド米なので、その味の格差はくっきり鮮明だ。
炊き上がりのツヤツヤ感が違う。湯気と共に漂う香りが違う。
ふんわり感・もっちり感が違う。ちなみに水は近所の湧き水を使用。
そこらの市販のミネラルウォーターとまったく遜色ない、美味しい水で炊いたら、まさしく「銀シャリ」になったのだ。
●ふるさとは田んぼのある風景
米の味は日本人のDNAにしっかりと組み込まれている感じがする。
それとともに「ふるさと」という言葉を聞いて思い浮かぶのは、やはり田んぼのある風景なのではないだろうか。
僕は田んぼのある所で生まれ育ったわけではない。
けれども「ふるさと」「日本」「自然」といったキーワードを並べられてイメージする風景は、やはりカエルが大合唱する夏の田んぼ、黄色い稲穂がたわわに実り、トンボが行き交う秋の田んぼの風景だ。
よく考えると田んぼは純粋な意味での自然の風景とは言い難い。
だって田んぼ自体、ほったらかしの野生のものではなく、人間が手をかけたものなのだから。
人間が水を引き、丁寧に作りあげた田んぼにいろいろな生き物が住みつき、生命が循環する……そういう「手をかけて作りあげた自然」が、米の味とともに日本人の遺伝子の一部に焼きついているのだ。
そして、それはとても優しい、女性的・母親的な雰囲気を持った風景だ。日本の国土そのものがお母ちゃんの胎内、そこから生まれる文化もまたお母ちゃん的なのだと思う。
最近は海外生活にも順応できる日本人が増えたが、それでもある程度の年月、この国で過ごし、成長した人間にとって、田んぼの風景から派生する母親的優しさは、潜在意識に強烈に刷り込まれる。
言ってみればマザコン状態になる。
日本が恋しくなる。離れられなくなる。
海外生活の長い人も「やっぱり死ぬときは畳の上がいい」なんて言う。
定年後に外国暮らしを始めた人たちも寂しくなって舞い戻ってくる。
それが日本という国なのだ。
●日本は女神に守られた国
今回の大震災。被災地の人たちの礼儀正しさ・我慢強さに対する世界の評価は最上級と言ってもいい。
“Respectable”。
「日本人という国民性の素晴らしさが集約されている」といった賛辞まである。どうして礼儀正しく、我慢強くいられるのか……その裏には母親を信頼する子どもの心理に通じるものがあるのではないかと思う。
僕たちは皆、心の奥底で自分を守ってくれる、この国土の母親的な精霊みたいなもの、女神様みたいなものを全面的に信じているのだ。
これはもちろん僕の妄想なのだが、こうしたネイティブな愛と信頼の心を抱けなければ、とても現在の政治の頼りなさ・体たらくに黙っていられないと思うのだ。
南魚沼をはじめとして、早や田植えの季節が終ろうとしている。
東日本大震災の悲惨な爪あとと向き合わなくてはいけない今年の日本人にとって、美しい緑の田んぼの風景は心の傷を癒し、潤してくれるものになるだろう。
じつはこの修学旅行には秋に続編が用意されている。南魚沼から生徒たちが植えた苗から出来た米が学校に送られてくるのだ。そこで収穫祭としてコシヒカリのおにぎりをみんなで食べるのだそうだ。
垂涎。
2011・5・23 MON
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