遺影と思い出とのギャップ

 

 「こんな顔だったかな……」 

 

 昨日、お葬式に出た。

 うちの小僧が小学生の頃、一緒にPTA活動をやっていたお母ちゃんの葬式です。

 齢を聞かなかったが、僕と5歳も離れていないと思います。

 いずれにしてもまだ50代半ば。ガンによる早すぎる死です。

 結構インテリで頭の回転もいいの割にボケキャラで、突っ込みどころ満載の楽しい人でした。

 近所に住んでいながらここ3年ほど顔を合わせていなかったが、まさかあちらに行ってしまうとは……ショックだった。 

 

 で、お別れをせねば、と式場に来たのだが、そこにある遺影には何やら違和感を感じました。

 もっと言っかうと、まるで別人のように見えたのです。

 基本的に美人で山の手奥様なのだが、僕のイメージの中ではくだけた印象が強く、その顔にはもっと下町のおかーちゃんの風味がブレンドされていました。

 遺影からは(僕にとっての)彼女の魅力である、人間的な奥行きが感じられず、なにやら山の手奥様になられた元アイドルのように感じられたのです。 

 

 いや、別にその写真を遺影として選んだであろうご遺族を批判するつもりはありません。

 要は人の印象というものは、相対した人によって千差万別ということです。

 僕の中にある彼女のイメージと、ご家族や他の人たちの中にいる彼女のイメージは大きく違っている可能性があります。

 人は誰に対しても同じような顔を見せるわけではありません。

 それもTPOによって見せる顔は違ってきます。

 特に現代人はそうした複数の自分のスイッチングが器用にできる人が多いのではないかと思います。

 「今日はボケキャラで行くか」「ここは優等生キャラにしとくか」とか、ね。 

 

  昨年、仕事でお葬式セミナーの取材をしました。

 年輩の人を集めて「いざというとき、遺族を困らせないために生前からお葬式の準備を」という趣旨のセミナーです。

 

 その準備の一つとして「生前に遺影にする、お気に入りの写真を撮っておきましょう」というのがありました。

 この世から去ってしまった後は、遺影がそのままその人のイメージとして固定されます。特に孫が小さいうちにお別れしてしまったら、おじいちゃん・おばあちゃんを思い出すときは、必ずその遺影の顔になるわけです。

 人によっては、遺影が生きていた時間よりもずっと長く、多くの人の心に焼き付けられるかもしれません。

 自分のどんな顔を後世に印象付けたいか、高齢化社会に生き、自分を大切にする時代に生きる人たちにとって、これは結構大問題かも知れないのだ。

 あなたならどんな自分の顔を後世に残したいですか? 

  

 こうやって書いていたら、昨日見た彼女の遺影はすっかり頭から消え去り、4年程前のいきいきとした笑顔とちょっとハスキーな声が、鮮明に記憶の表面に上がってきた。

 3分間、いっしょに夏休みのイベントをやったこと、広報誌の打合せをやったことなどを思い出だした。

 客観的に見ればオバさんだけど、その笑った顔の奥には可愛い子どもが跳ねていた。 

 ご冥福を祈ります。

 

 

2011・5・11 Wed