●テネシー・ウィリアムズとビートルズ
「欲望という名の電車」。
一度聞いたら忘れられない、強力なインパクトのタイトル。
アメリカの 劇作家、テネシー・ウィリアムズの戯曲です。
初演は1947年・ニューヨーク。
第2次世界大戦が終って間もなくのこと。先週、この芝居を、かの大人計画の松尾スズキが演出した舞台を渋谷のパルコ劇場で見ました。
ここのところ、割と口当たりのいい芝居や映画を観ることが多かったせいか、とてつもなく刺激的。劇薬と言ってもいい。
一週間たった今日もまだ、口の中にたっぷりとその苦味が残っています。
「欲望という名の電車」は名作として名高く「近代演劇の金字塔」と呼ばれていますが、僕がこの「金字塔」という言葉に初めて出会ったのは中学生の頃。
ビートルズの 「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムのジャケットに掛かっている帯に書かれてありました。
「音楽世界から脱却したビートルズの金字塔。
現実と幻想、主知と主情を見極めたポップ史上最大のトータルアート!」
このアルバムは、一般にビートルズの最高傑作とされています。
僕はビートルズは基本的にいろんな寄せ集めアルバムばかり聞いているので、あまりピンと来ないのだけど、確かに「アルバム」としては演劇的で最も面白い。
●バーチャルワールドとしてのサージェント・ペパーズ
このアルバム自体が架空のバンドであるサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのショーになっています。
つまり、今で言うバーチャルワールド。
ここで展開される凝りに凝った音作りに対しては批判もあるが、こうした世界を1967年の時点で発想し、構築していたという事実こそ、一ロックバンドを超越し、世界史に永遠に名を残すであろうビートルズの偉大さだと思います。
現在のロック・ポップミュージックの可能性はここから一気に広がりました。
まさしく金字塔なのです。
一曲一曲ピックアップしていくと、そんなにピン立ちする曲はありません。
しかし、最後に架空のバンドのアンコール曲として現われる「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」だけは別格。
その前の12曲はすべて前座。
アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」=ラストナンバー「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」なのです。
この曲の衝撃度は未だ色あせないどころか、21世紀に入ってますます凄みを増しています。
なぜか。それは僕たちがいま生きているこの社会が、どんどん、この「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のイメージ世界に近づいてきた、いや、ほとん どそのものになっている、と感じるからです。
このレコードのライナーノーツ(解説:立川直樹)にはこんな文章があるので抜粋してみます。
……“SGT PEPPER'S”は単に音楽界の大事件には終らなかった。
“SGT PEPPER'S”を、現代の孤独感とその恐怖をあらわしたものと感じ、来るべき新入生の説教のテーマにしようと考えた、スタンフォード大学の司祭長デイビー・ナビエ神父。
ある精神学者は「ビートルズは実存主義的な方法で現実の不条理性を語っている」と解説し、別の精神医学者は「ビートルズの強烈なビートは、我々が子宮の静寂の中にいた時、母親の鼓動のたびに伝わってきたこだまを思い出させる」と分析した……。
まだロック、ポップミュージックが社会に十分浸透しておらず、ましてや一つの文化として見なされていなかった時代に、このように論評されています。
いかのこのアルバムが、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」という曲の登場が社会的な大事件だったのか、ひしひしと伝わってきます。
●バブル時代の女
ここで語られる「現代(1967年)の孤独感とその恐怖」は半世紀近くの時を経て、そのまま現代=2011年に繋がっています。
「豊かさ」を獲得した先進国の人間。
その豊かさの裏で肥大する孤独感・不安・恐怖。
「欲望という名の電車」から「サージェント・ペパーズ」を想起したのは、それをありありと感じてしまったからです。
パルコ劇場で観た舞台は、原作の1940年代のニューオリンズからはるか遠くの、2011年の日本。
秋山菜津子演じる主人公のブランチは、アメリカの没落貴族などではなく、高度経済成長やバブル経済時代を謳歌した世代の女(そして、きっと象徴的な意味では男も含まれる)。
その妹夫婦であるスタンリーとステラは、その尻拭いをさせられている若い、子ども世代。
彼らは徹底的にブランチの身にまとった虚飾を剥ぎ取り、丸裸にされたブランチは孤独と恐怖の中で凌辱され、無残に精神崩壊していく……
こんな風に書くと、まったく救いがないのだけれど、実際、救いがない舞台なので、演劇に夢や希望などを求める人にはとてもオススメできません。
秋山菜津子の演技は「素晴らしい」を通り越して「凄まじい」の一言。
こんな演技を何週間にもわたってやっていて、本当に頭がおかしくなったりしないのだろうか、 と、マジ心配になりました。
●豊かさと引き換えの孤独感・不安・恐怖
テネシー・ウィリアムズの原作では、スタンリーとステラ(妹夫婦)は、破滅の美学を表現するブランチと対照させた「粗野だが逞しい生云々…」と、割と肯定的に捉えられています。
日本でもきっと文学座で杉村春子先生がブランチを演じていた時代には、こうした解釈は当てはまっていたのでしょう。
しかし、時代のせいなのか、松尾スズキの演出のせいか、観ている自分の考え方のせいなのか、定かでないが、僕にはこの夫婦には、現代の暴力と退廃と閉塞感しか感じられませんでした。
劇中で生まれた赤ん坊は、そのうちこの夫婦に虐待されて死んでしまうのではないか、と想像させられました。
本当に救いがない。
これ以上先、どこへも行けない。
誰もが「豊かさ」「快適さ」と引き換えに、孤独感と恐怖を抱えて生きてきた現代。
大震災をきっかけに広がった「つながろう」の空気は、欲望という名の電車に乗って街から街を巡った末に、救いや希望を失ったロンリー・ハーツ・クラブ・バンドの人々の、変化を求める気持ちの表れなのかも知れません。
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