●「子ども時間」は大人の時間とちがう軸の時間
子ども時代は長い。
振り返ってみればほんの数年間しかない。
けれども当の子どもにとって、子ども時代は永遠とも思えるほど長い。
大人になった自分を想像することなんて、あの世のことを想像するにも等しいのではないだろうか。
子どもの時間感覚は、それくらい大人と異なると思います。
●絵本「ゆずちゃん」の朗読
昨日は、小学校で絵本の朗読(個人的に「読み聞かせ」という言い方が好きではない)をやりました。
2年間押入れにしまったあっ た息子の青いランドセルを引っ張り出してきて、その中に絵本を詰めてみました。
どんな絵本が出てくるのか……
プレゼントの箱を開けるようなドキドキ感の演出。
相手はひと月前まで1年ぼっこだった新2年生。
ランドセルから取り出したのは「ゆずちゃん」という本です。
まるでストーリー作りのお手本のような話が展開します。
いっきに物語世界へ 引き込むオープニング。
イメージをぐんぐん広げ、深めていくエピソードの積み重ね。
明確なクライマックス。
そして余韻として、聞き手の心に物語世界を「ひとつの体験」として刻印するかのようなエンディング。
ゆっくりめに読んでも10分に満たないお話なのだが、子ども時間に換算すると、2時間くらいの映画を観たくらいのボリューム感はあったのではないか、と思います。
しかも内容は生と死について語るかなりドラマチックなもの。
なにせ阪神淡路大震(1995年)で友達をなくした子どもの話です。
「今年の震災のこともあり、いのちについて考えるために」と、司書の方が選書した一冊なのです。
正直、2年生、わずか7歳・8歳の子どもたちにはシリアスに過ぎるのではないかと思っていました。
朝の授業開始前の時間にやるのには重すぎるんじゃないか、とも。
いったいどんな反応をするのか、さっぱり予想できず、もしやトラウマを与えることにはならないか……とか、妄想も広がりました。
しかし、小さな聞き手たちは逞しかった。
反応はじつにビビッド。
「どうしてこんなところで笑うの?」というところが幾つもあって戸惑ったり。
多少は読み込んで練習してきたので、落ち着きは失いませんでしたが、大勢の前でパフォーマンスするには、やはりけっこう気合がいります。
こちらも五感全体を開放して声を出します。
ストーリーが進むにつれ、子どもたちの中にしっかりとこの本で描かれたドラマが吸収されていくのを肌で感じました。
そうした子どもらの心の動きを感じることはできるのですが、読み手としての未熟さゆえ、瞬時に反応して声のトーンを変えたり、間をとったり・・・といった表現の工夫に結びつけらないのが、少々もどかしい思いがしました。
おそらくこういうところがプロの俳優やナレーター・アナウンサーとか、専門の語り手さんたちと、素人との違いになるのでしょう。
●ドラマ・物語を多様な形で呼吸するための時間
「ゆずちゃん」は、阪神淡路大震災の被災者の実話をもとにしたお話らしく、とても濃密でリアルなドラマです。
マスメディアが発達した現代では ドキュメンタリーが尊重され、作り話は軽く見られる傾向もあります。
けれども余りに辛い現実の前に立たされると、人間は目をそむけ、自分の中に入ってこないようにしたがるもの。
僕も現実にうまく立ち向かっていけない時があります。
それではダメだとわかっているが、実際に毅然と現実に立ち向かっていける強い人間はそうそういません。
大人だってそうなのだから、子どもはなおさら。
その辛い現実を和らげて伝えるために「物語」があるのだと思います。
物語としてなら辛さも悲しみも受け入れられます。
笑いやユーモアで身体をゆるめながら、さまざま々な感情を心に吸い込ませることができます。
身体も心もやわらかい子どもは、素人の絵本の朗読(読み聞かせ)でそれがいともたやすくできるのです。
子ども時間は、単に長い・短いだけでなく、この世にあふれるドラマ・物語を多様な形で呼吸するための時間でもあるのだと思います。
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