12年間やってきたカミさんの「野の花鍼灸院」」が昨日を最後に閉院した。
自宅の1階のワンフロアのリビングを半分に区切って、そこを治療室にしていた。
職住一体。
待合室も設けられないので予約時間で区切るしかなく、
必然的に時間内は完全なプライベート診療になった。
女性と子ども専門だったので、かえってアットホーム感が好評だった。
僕はもちろん、営業中に一度も治療室に入ることも、
患者さんの前に出ることはなかったが、
ホームページやパンフレットを作ったり、掃除を手伝ったり、
2階で連日やってくる子どもの声を聞いたりしていたので、
けっこう思い入れも深い。
家庭の事情とはいえ、閉じるのは何とも寂しく胸が痛む。
かなり感傷。
僕の感傷的な話を書いてもしゃあないので本題に入ると、
国家資格である鍼灸師は大勢いるが、
開業できる人はごくわずかだと言う。
カミさんは40を過ぎてから3年間学校に通って資格を取ったが、
同級生で自分の院を持っている人はほとんどいないらしい。
鍼灸師のみならず、整体師もそうだが、
毎年、びっくりするほど大勢の人が資格を取る。
にも関わらず、その8割、9割の人はそれを生かせない。
自分で開業するには莫大な資金が必要だとか、
ロケーションの良い一等地じゃないと患者さんが来ないとか、
しっかり収益を上げなきゃダメだとか。
何かそういった思い違い、思い込みがあるのではないだろうか?
せっかく腕1本でやっていける技術・許諾を得たのに、
ハコの良しあし・設備のあるなしにこだわって
自分で開業しないのはもったいない。
うちがやってきたスタイルはべつに新しいものではない。
僕が子どもの頃、
ばあちゃんに連れて行ってもらった鍼灸院も、
長屋みたいなボロい家で布団一つ敷いて営業していた。
本来、鍼灸院や整体院といった民間医療はそういうものだ。
「医療ビジネス」にしようと思うから、
いろいろ大きなことを考えて動けなくなってしまう。
小さくでいい、
パートとして大して変わらない稼ぎでもいいから、
資格のある人はまず自分で始めて、
直接、お客さん(患者さん)と相対しないと、
いつまでたってもスキルアップしないし、
キャリアが積み上がらない。
続けられるかどうか考えるのは、始めてみた後の話である。
いくら国家資格でも何年もほったらかしでは宝の持ち腐れ。
ペーパードライバーになってしまう。
何年も経ってから「じゃあ運転します」と言い出したって、
誰もペーパードライバーが運転する車になんか乗りたくない。
うちの場合は、幸い駅チカの戸建ての貸家を見つけられたが、
アパートでもマンションでも、
保健所の基準をクリアできるところならどこでもできる。
自営業だから自分のライフスタイルに合わせて――
たとえば子育てをしながらでもできる。
そして、それはすべて貴重な実績・将来の財産になる。
最近はホームページだって無料で、
あるいは年間1万円少々で開設・運営できる、
設備を整え、宣伝してスタートする費用は
20~30万円程度しかかからないと思う。
カミさんもそんなこんなで12年やってきたので、
自分の院を閉じても、
他の診療施設の仕事や、講師や指導者の仕事がある。
がんばれば得られるものは小さくない。
こうしたノウハウは鍼灸の後継者を育てるためにも
伝えていきたいと話し合っている。
生活が落ち着いたら、その準備も始めようと思う。
「鳩がクソを垂れて飛び立つ」
これは平成の終わりとともに逝った名優、
ショーケンこと萩原健一の代表作
「傷だらけの天使」の第1話の冒頭にあるト書きだ。
あの名作はこの1行から始まった。
この脚本を書いた故・市川森一氏は
「傷だらけの天使とは何だったのか?」と回想した際、
自分で書いたこのト書きに,
その答えを発見した、と語っていた。
「鳩=平和のシンボル。
傷だらけの天使とは、1970年代の平和と繁栄の“クソ”だったのだ」
今日、仕事(三田の方で取材があった)で
久しぶりに田町駅で降りたら、
三田方面に向かうペディストリアンデッキの手すりの上に、
あまり美しくない鳩がズラリと居並んでいた。
女の人などは、汚いものを見るようにイヤ~な顔をして通り過ぎていく。
鳩が平和のシンボルだと言われても、
今や「?」の人が多いのではないか。
僕たちは平和にも繁栄にも慣れ切ってしまっている。
でも、巨大なビルが立ち並び、
あまり人が始終行き交う大都会の真ん中で、
僕たちのようにあまり美しくもなく、強くもなく、特別でもなく、
もちろん偉大でもない、平々凡々とした鳩たちが、
わやわや集まって仲良く生きている光景を見たら、
やっぱり平和とはいいものだよなと思った。
PEACE。
昨日は義母と、実家のある清瀬市の清瀬柳瀬川の川沿いを散歩した。
この道は桜並木が美しいことで有名だが、川は高度成長時代から昭和40年代にかけては生活排水などでひどいドブ川になっていたらしい。
それが地域の人々や行政の努力で半世紀かけて、鮎も泳ぐ美しい川によみがえたという。
うちの息子がチビの頃、この妻の実家に来ると、いつもこの川で水遊びをしていた。
昨日も暑かったので、当時の息子くらいの男の子がバシャバシャと大喜びで水遊びをしていた。
義母は嬉しがって「わぁ、気持ちよさそうだねぇ」んどと声を上げる。
これから一緒に暮らすので、今後の生活に向けて、いっしょに時間を過ごす練習をしたほうがいいだろう、ということで、ちょっとトレーニングの日を設けてみたのだ。
3時間ほどの間、休職して義母としばらく一緒に暮らしている義妹が抜けて2人きりになった。
義母は亡くなった義父、つまり自分の旦那以外の男性と二人きりになったことは、84年の人生の中でおそらくほとんどないらしい。
ずっと家の中にいるとに、すぐに煮詰まってくるので
「散歩しましょうか」というと嬉しがって、
お出かけ服とまでは言わないけど、
ちょっとした外出着に着替えてきた。
認知症なのだが、からだは丈夫で、5階建ての団地の階段(古い住宅なのでエレベーターが付いてない)も平気で上り下りする。
歩く足取りも、84歳とは思えないほどしっかりしている。
河原に下りたり上がったりして、50~60mほど歩いたところで、
「あそこで働いていたのよ」と言って、道路の向こう側にある建物を指した。
今は何かの倉庫として使われているが、昔はこの地域のスーパーで、もう40年くらい前に5~6年間、その店でパートで働いていたのだそうだ。
カミさんの話によると、そこのパートの仕事が、とても楽しかったらしい。
ただ、関白亭主の義父は、妻がそこで楽しそうに働いているのをあまり快く思っていなかったようだ。
認知症になった今、亡くなった夫のことは、夫ではなく、自分の父や兄だと言う。
娘のことはカミさんも義妹も、「ヘルパーのおねえさん」といった理解らしい。
僕のことは当然、娘の夫でもなく、義理の息子でもなく、
どっかから時々現れる「明るい男」ということになっている。
半世紀以上、寝食をともに共にしてきた家族のことは忘れても、
40年以上前、ほんの一時期、働いていたパート仕事のことは憶えている。
義母の人生のハイライトだったのかな?と思う。
家族は大切だが、同時に主婦・母親にとって、
家族は一種の重い「義務」でもある。
もしかしたら義母は、その重たい義務から、
すっかり自由になったんだろう、と思う。
自由になった義母の心が、できるだけ羽ばたけるような暮らし方をする必要があるのかもしれない。
美しい川と緑の小道を歩きがら、そんなことを考えた。
つましい生活をしていた高齢者が亡くなってみたら、何千万円ものタンス預金を残していて、びっくり! ――という話をよく聞く。
なんで?
そんなにお金があるんなら、貧乏に甘んじず、もっと裕福に暮らせたろうに・・・と思っていたが、今回、義父の死に触れて「そりゃ当然だな」と納得してしまった。
お葬式をするのも、お寺さんにお経を唱えてもらって戒名をいただくのも、納骨してお墓を建てるのも、従来の、いわゆる「昭和システム」にのっとってやっていたら、いくらお金があっても足りない。
あっという間に数百万、ちょっと見栄を張ったら1千万くらいすぐに使ってしまう、と思う。
これに前後の医療費やケアのお金を入れれば、そりゃたしかに何千万円も持ってなきゃ、安心して老後を暮らせないし、安らかに眠ることもできない。
けっして日本の仏教文化、葬儀供養の文化を軽んじるわけではないが、「昭和システム」の葬儀供養を遂行するのは、今や、よほどのお金持ちでなければ無理である。
「無理をしてでもやるべきだ」という宗教心の厚い人、伝統的な習慣を重んじる人の意見もあると思う。
否定するつもりはない。
ただ、伝統的な習慣と言っても、みんながこれだけお金の掛かる供養葬儀をやるようになったのは、高度経済成長時代からだ。
現代のように、広く自由に情報が飛び交う時代ではなかったので、業者などに「そういうものだ」と言われれば、「そういうものか」と選択肢もなく、無理をしてでもそうせざるを得なかった面もあるだろう。
要は一般庶民にも裕福な人が大勢増えて、昔の武士階級・貴族階級・地域の名士など、社会的地位の高い人たちの真似をしたくなっただけではないのだろうか。
現代はお葬式にしても、お墓にしても、供養の仕方にしても、多様な選択肢がたくさんある。
無理なく、納得でき、大事な人を心から偲べるやり方は、いくらでも自分たちで創ることができる。
盛大なお葬式をして、りっぱなお墓を立てて、遺された家族がみんなハッピーになれるなら、それでいい。
けれどもそうでなく、精神的にも経済的にも負担が増えるばかりで、心から偲ぶこともままならないリスクを背負いそうなら、昭和の習慣の呪縛から自由になったほうがいい。
“仏像にいちばん近いアイドル”を取材しに、いざ鎌倉へ。
その名も「みほとけちゃん」。
彼女は何と、2016年度ミス鎌倉でもある。
当然、美人でかわいい。
写真や動画を見て、それはわかっていたが、
ナマで会ったら、一段と美人でかわいい。
そして、かしこく、おとなだ。
自作の刺繍入り作務衣を着込み、
仏像のインナースペースに入り込める特技を持ち、
まさしく仏像にいちばん近いアイドルを体現する。
僕はこれまで特にアイドルに興味を持ったことはないが、
彼女のことは応援したくなる。
興味を持ったら、
「みほとけ」で検索してみてください。
アイドルの鎌倉おすすめスポットの一つが、
おみやげの「鳩サブレ」でおなじみ、
豊島屋がやっている洋菓子店&カフェ「置石」。
ここの「置石ソフト」は、
ソフトクリームの中に粉々になった鳩サブレが
まんべんなく入っているという逸品。
クリーミーさとザクザク感が一体化して
これはおいしい!
アイ love 鎌倉。
親の介護のために、カミさんが12年やってきた
「野の花鍼灸院」の看板を下ろすことになった。
身内の自分が言うのも何だけど、
自宅を改造したプライベート空間で
女性と子どもを専門で診療し、、
一緒に子育てに関する相談もできるというのは、
割と希少で貴重な診療所だったのではないかと思う。
子ども向けの鍼灸ができる鍼灸師は、
関西方面ではそこそこいるが、
関東ではまだまだ少ない。
閉院のニュースを聞いて訪れた人の中には
泣き出す人までいるらしく、
やっぱりこの空間がなくんるのは惜しいなと思う。
ただ、閉院はするが、仕事をゼロにしてしまうわけではない。
3年ほど前から週1で通っている横浜の診療所の仕事は続けると言う。
それに専門学校の臨時講師や、海外の鍼灸師に対する講師の仕事もある。
海外――特に欧米では鍼灸治療の効果は
WHOでも認められているほど、広く知られており、
治療院を営んでいる人も多い。
現在のホームページはサーバーを解約して消えることになるが、
ドメインだけは契約更新した。
しばらくして落ち着いたら、同じドメインでカミさん個人の
ホームページを作る予定だ。
引っ越し先の近辺の幼稚園や保育園に交渉して
子どもを診療する機会を作る計画も立てている。
また、せっかく国家資格を取っても、
ペーパードライバー状態の鍼灸師も多いので、
小児鍼の基本と自宅開業ノウハウを教え、
後進育成につなげるコンテンツの制作や、
セミナー開講などの企画も始める。
介護と並行して新しい活動の基盤づくりができればいいと思う。
連休中に義父が急逝。
遺された義母の面倒をどうするか?
という問題を背負うことになった。
義母は身体は割と健康ではあるものの、
認知症になっていて、ひとことで言うと
ファンタジーの世界で生きている。
僕たちと日常の時間を共有できない。
とてもひとり暮らしはさせられないということで、
現在は神戸在住の義妹が会社を休み、そのまま残って一緒にいる。
けれども、彼女にだって仕事と生活があるので、
いつまでもというわけにはいかない。
それで、うちのカミさんは今やっている治療院を閉鎖して、
清瀬の実家に戻ると決めた。
じつは僕は、12年やってきて実績もできたこの治療院の、
ホームページ刷新と、
スマホ用ラディングページ作成のために、
密かに構成とテキストを作っていた。
正直、「そんな・・・」と思ったが、
こういう局面では、女は思いきりよく、迷いがない。
現在の自宅は治療院併設のために借りたところなので、
もうここにいる意味がないし、カミさんひとりで
介護をやらせるわけにはいかないので、
僕も一緒に清瀬に行くことにした。
結婚して子供も育てた永福町とも6月にはお別れになる。
昨日は所沢斎場で義父の葬儀を行った。
葬儀と言っても、火葬の前に少しの間だけお別れをする、
いわゆる「直葬」である。
義父の妻である義母、その娘であるカミさんと僕と息子(孫)、
そして妹夫婦の6人が参列。
身内だけでゆっくりお別れができた。
退職して25年経つので、仕事関係の人たちとはもう縁が切れているし、
ずっと親しく付き合っていたらしき友人もいないし、
親戚も無理に呼べば呼べたかもしれないが、
やめておこうという話になった。
ずっと親しく付き合っていたらしき友人もいない。
もしかしたら、いたかも知れないが、
どう連絡を取っていいかわからなかった。
懇意にしているお寺もないし、義父から宗教的なニュアンスの
話も聞いたことがない。
簡素で安価な葬儀にすることには何のためらいもなかった。
遺体を引き取りに行った警察署で出入している葬儀社のリストには
5社くらい載っていて、カミさんが直接電話で連絡。比較検討した。
こういうところ、うちのカミさんはカンが鋭く、賢い。
他の所はベーシックな値段は安いが、
オプションで2倍・3倍以上に膨れ上がりそうだ――
という匂いを感じ取って、結局、地元の小さな葬儀社を選んだ。
結論的には大正解で、
とてもとても誠実で丁寧で良心的な葬儀屋さんで、たいへん助かった。
感謝に絶えない。
たぶんポータルサイトでレビューが書けるので、
良い評判を広げたいと思う。
お金の話をするのはどうかと思うが、気になる人が多いと思うので
参考になるよう、あえて書いておくと、すべて込みで32万円弱でした。
内訳も明瞭で本当に良かった。
結局、お葬式は、大規模に立派にやるにしても、
つつましく、ささやかにやるにしても、
遺族の満足感・納得感の問題だと思う。
義父は胃がんを手術で、前立腺がんを放射線治療で完治させ、
克服してきた強い人だった。
そして関白亭主で、奥さん――義母をアゴで使っていた。
家のことは一切やらず、お茶も自分では淹れない。
けれども5~6年ほど前から義母が認知症になってから、
その生活ぶりが変わっていった。
義母は2年ほど前からお茶を淹れる以外、
家のことが出来なくなってきた。
もう自分でやるしかない。
「家族に迷惑をかけたくない」と言うのは、
最近の高齢者全般の口癖だが、
義父の場合はその最たるものだった。
迷惑というか、絶対に人に弱みを見せない
というのが信条だった。
たとえ相手が家族でもだ。
カミさんも義妹も電話で義父の話を聞くばかりだったので、
2人とも結構元気なものと思っていたらしい。
そしてとにかく器用なので、やる気になれば何でもできた。
掃除も洗濯も裁縫もやっていた。
ただ、さすがに料理だけは、にわか仕込みではダメで、
レンジでチン食が主食だったようだ。
それに加え、義母を病院につれて行ったり、
薬の管理をしたり、迷子にならないようにしたり。
まめまめしく世話をしていたらしい。
認知症介護士の資格も取ろうとしていたようだ。
弱音を吐かないことは立派だが、
本当にそれでよかったのかという思いが残る。
強い男の生き方ももう限界に近づいていたのかもしれない。
それでも娘たちのところへはSOSは出さなかった。
その矢先の突然の死だった。
部屋の中にある様々なメモや生活の痕跡を見ながら、
怖くて厳しく君臨していた昭和の関白亭主が、
最期にはまるで恩返しか、贖罪をするかのように、
少女のようになってしまった女房を
甲斐甲斐しく面倒を見ている姿が脳裏に浮かんだ。
ヘンな言い方だが、終わってみれば、二人の夫婦関係が
最終的にはチャラになったような印象がある。
なんだか人生うまくできているものだなと思う。
それなりの長さを生きれば、
ずっとラッキー、ハッピーもなく、
アンラッキー、アンハッピーもなく、
最期には何でもチャラになるのではないかという気がする。
カミさんと僕と息子、義妹夫婦の5人で
亡くなった義父の遺品整理をした。
義父は若い頃、自衛官で、
退官後は自動車教習所の教官を務めていた人だ。
めちゃくちゃ怖い教官だったらしく、
娘たちに対してもかなり怖い父親だったらしい。
特に長女のカミさんは昭和男の
「女に教育は要らない」式の躾をされ、
かなり圧力をかけられ、自由を制限されていたようだ。
しかしそれが逆にバネになったのか、
成人する頃には、如才なく親をやりこめる才覚を表し、
その後、海外で働きながら旅をするなどして、
自由で独立した生活を獲得した。
人間とは面白いものだと思う。
義父は自営官時代に身に着けた習慣があって、
身の回りの管理術に長けていた。
何でもこまめにメモを残し、
几帳面に整理する癖を持っている。
近年、遺産相続や遺品整理に困っている遺族に対する
サービス業が繁盛しているが、それもうなずける。
離れて暮らしていた遺族が、生前の生活状況を把握し、
遺品・遺産の整理をするのは大変な作業だ。
おそらくこの義父ほど几帳面にメモを残し、
管理を実践している高齢者はそう多くはないだろう。
それでも、どこかにメモがあるだろうと思っていた
キャッシュカードの暗証番号だけは
ついにわからずじまいだった。
役所への届けとともに、口座は凍結されることになる。
それでも葬儀代など、当面必要なお金の分は
ちゃんと現金でしまってあった。
僕と反対で、多趣味で何でも器用にこなすことができた。
三味線やギターを弾き、日曜大工もお手のもの。
教官だったので、もちろん自動車の運転はプロドライバー。
ボウリングもプロに近いアベレージだったと言う。
高齢になってから始めたパソコンも器用に操っていた。
「だけど器用貧乏なのよ」とカミさんは言っていた。
何でもすぐにマスターできるので、
執着心がなく、すぐに飽きてしまうのだという。
名取りにまでなった三味線もすっかり辞めてしまっていた。
自分にとってこれだ!というもの、
とことん追求したいと思えるものは、なかったのかもしれない。
晩年は競馬が趣味で、これも雑誌や新聞などを参考に
めちゃくちゃ研究していたようだ。
自前のノートに膨大な分析データが残されていた。
おかげでけっこう勝率は高く、
確実に小遣いを稼ぎ続けていたようだ。
けれども大穴を当てたという話は聞かないので、
そう派手に儲けることはできなかったらしい。
いろいろデータ分析するのを楽しんでいたのだ。
死の2日前の天皇賞(平成最後の天皇賞だ)も
少額だが獲っていた。
手垢のしみこんだ競馬関連のノートなどは火葬の時、
棺に入れてあげようと思う。
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