★寿司職人いまむかし
だいぶ前にホリエモンが「寿司職人が何年も修行するのはアホ」とSNS上で発言したことがあった。
長大な時間を修行に費やす職人の世界の常識に大胆なメスを入れ、現代の若者はそんな旧弊に従って貴重な時間を無駄使いするべきでないという趣旨の意見だったが、当然のことながら大炎上した。
僕も若い頃、これと通底する話を聞いたことがある。
勤めていたロンドンの日本食レストランには寿司もメニューにあり、職人さんがカウンターで寿司を握っていた。
ブームだったこともあり寿司をやってみたいと言う若い外国人(日本人以外という意)も訪ねてきたが、店はけっして門戸を開かなかった。
「白人でも黒人でもアジア人でも、外国人が寿司を握るなんておかしい。ああいう人たちの手で出されたら食べる気しないでしょ。日本人が握るからおいしいんだよ」というのが店だか会社だかの論理だった。
同じことは女性にも適用された。
「寿司っていうのは繊細なものでね、ちょっとした指の熱の違いで魚の味が悪くなるんだよ。女は体温が高いからダメなんだ」という話をまことしやかに語って聞かせる人もいた。
確かにその頃(30年以上前)は女の寿司職人も外国人の寿司職人も見たことなかったので「そうか、そういうことなんだ」と思った。
現代ではもちろん「そんなもん」はまかり通らない。
6月にロンドンに行ったときは、駅の構内をはじめ、街中のあちこちに「SUSHI SHOP」が溢れていてびっくりした。
今やロンドンで寿司はサンドイッチやハンバーガーと同じファーストフード。しかもおいしくヘルシーだというので、他のものより高くても飛ぶように売れる。
そこで働いているのは日本人以外の人たちであり、男女の区別もない。もちろん彼ら・彼女らがその場で握っているわけではないけど、そんな環境の中で「寿司職人は日本人の男でなきゃ」というかつての確固とした常識は微塵も感じられない。
★幻想・ストーリーは大いなる調味料
日本国内でも冒頭のホリエモン発言を裏付けるかのように、専門学校で3か月ほど勉強しただけの職人さんが店を開き、1年たたないうちにミシュラン認定の一流店に選ばれた。
「師匠のもとで10年修行しなくては一人前になれない」という常識は、情報伝達手段が限られていた時代の幻想だったことが判明した。
僕もホリエモンの合理性に基づいた意見は正しいし、若者を閉じられた世界の旧弊から解放することは必要だと思う。
しかし一方でそうした幻想なりストーリーなりが日本の食文化を育ててきたし、これからも育てていくのではないかとも思う。
寿司に限らず、日本食は実際に説明できることだけでなく、何割か――もしかしたら半分近くは、作る側・食べる側、双方で共有する幻想・ストーリーに負っている。
つまりその食材やら調理法やら調理者の経歴・人柄、あるいは人間関係などの情報が「調味料」となっているのである。
食材や調理法について数多くの情報がオープンされている現代では、前もってその店や職人に関する知識がなければ、名店の職人の寿司も、無名の見習い職人の寿司が握る寿司も、味にそう変わりないのではないだろうか。
そこに経済が絡むのなら、こっちの方が高いからこっちがおいしいとか(僕もこれだけお金を払ったのだから、おいしくないはずがないと思い込んで食べることがある)、逆に味が変わらなければ安い方がおいしく感じるといいったこともあるだろう。
食について評価する人だって、そうした情報が重要だ。
ただ「おいしい」というだけでは話にならないから、どうしてそう感じるのかを裏付けるための情報を得て理屈をひねり出さなくてはいけない。
貧しさから脱するために子供の頃から丁稚奉公し、師匠や先輩に怒鳴られたり、時には殴られたりしながらも歯を食いしばって修行にはげみ技術を習得した――といったストーリーが作る人にあれば、その物語がこの一皿に凝縮されている、といった感じで美しく評論できる。
外国の場合はどうか知らない。中国・フランス・イタリアなど、世界に冠たる食大国にはきっとそうした部分があると思う。
でも日本ほどではない、たぶん。日本人とは食についてそうしたストーリー・幻想を求める人たちなのだ。
★脳で食を楽しむ以上、幻想はエネルギー
そういえば以前、都内のある有名料理店の料理長に取材したときに印象深い話を聞いた。
当時60代で、東北の田舎で育った彼は子供の頃、母がかまどを使って日々の食事を作ってくれたという思い出話を語ったあと、
「僕たち料理人の料理は、いわば芸人の芸みたいなもの。みんな芸に拍手してお金を払ってくれる。でも本当の料理という点では母にはかなわない。一生修行しても追いつけない」
これは功成り名を遂げ気持ちに余裕のできた人特有の感傷だな、と僕は思った。
彼の語る話を幻想だと言って嗤うのは簡単だ。
しかし食欲という原初的な欲望を、食という生きていくのに不可欠な営みを、文化の領域まで昇華させるということは結局こういうことではないか。
人間が舌だけでなく脳で食を楽しむ生き物である以上、幻想はエネルギーになるのだ。
ファミマのサイトには「お母さん食堂」におふくろの味の定番・肉じゃがが載ってない。
動揺した僕は別に肉じゃがのファンでもなく、急に食べたくなったわけでもないのに、どうしても気になって近所のファミマの実店舗に行ってみた。
入口には母ちゃん姿の香取信吾。
しんごママが流行っていたのはもうずいぶん昔の話。SMAPの絶頂期だったが、彼の残した実績は生き続け、今回見事こうした形で復活した。割烹着がまたよく似合っててすごくいい。
中に入るとキャンペーン中だけあって売り場も目立つ。ファミマの力の入れようが伝わってくる。
しかし、その棚を上から順番に見て行って、チーズインハンバーグやらビーフカレーやらサバの味噌煮やらボルシチやら筑前煮やら里芋の煮物やらポテトサラダやらきんぴらごぼうやら・・・実にいろいろ揃っているのにない。
肉じゃがはやっぱりない。
諦めきれずに向かいの棚でパンの品出しをしていた店員のおねーさん、というか香取信吾より齢いってるお母さん風情の女性に尋ねてみる。
「あの~、お母さん食堂に肉じゃがないんですか?」
「肉じゃが?どれどれ・・・ああほんとだ、いま品切れしてるみたいですね」
「え? ということはたまたま現在売り切れてるだけで普段はあるってこと?」
「ええ、すみません。夕方また品物が来ますから」
「ちょっと待って。それ本当?サイトには載ってなかったんだけど」
「へ? いや記憶にあるよ。確かあったと思ったんだけどなー。
あ、あれはセブンイレブンだったっけかな?」
と、ライバル店の名前をボロッと出して、かなりあやふやな返事。
これ以上問答してても埒が明かないなーと思ってファミマを後にし、こんどはセブンイレブンへ。
こちらはお母さん食堂の一歩先を行くご存じ「セブンプレミアム」でファンが倍増状況。
で、そのセブンプレミアムの並びをざーっと見ていくと・・・あったあった、ありました。
ファミマ店員のおねーさんが見た憶えていたのは、やっぱりこちら。セブンプレミアム北海道の男爵肉じゃがです。
そうか、セブンイレブンはやっているのにファミマはやっていないんだ。「お母さん食堂」と銘打っているのになんでなんでなんで?
疑問を拭い切れず、ついに思い余ってファミマのお客様相談室に電話をかけてしまった。3回呼び出した後に女性の声。
「はい、お電話ありがとうございます。ファミリーマートお客様相談室の○○でございます」
「もしもし、福嶋と申しますが、お母さん食堂のメニューについて伺いたいことがあってお電話したんですが」
「はい、ありがとうございます。どんなご用件でしょうか?」
・・・てな具合でなんでメニューにおふくろの味の代表選手である肉じゃががないのかと聞くと、サイトには載ってませんねーとピンぼけたお返事。
「サイトでもお店でも見当たらないから電話して聞いてるんです。いったいあのラインナップはどういう基準で決められているのか知りたいんですが」
「わかりました~。では商品企画室に問い合わせてみます。お客様のお名前とご連絡先を教えていただけますか」
てな具合で電話番号を教えていったん切って他のことをやってると8分後に電話が鳴った。
「問い合わせたところ、肉じゃがは出してないし今後も出す予定はないそうです」
思わずセブンイレブンにはあるぞと言いたくなったが、そこはぐっとこらえて
「そうですか。お忙しいところお手間をかけてすみませんでした」
「いえいえ、また何かござまいましたらお気軽にお問い合わせください」
てなわけでラインナップはどういう基準で決められているのかという話は忘れ去られていた。
これはお客様相談室ではダメだ。
何とか本社の商品企画室にダイレクトに取材を申し込まねばと思ったが、「日本のおふくろの味の変遷」だとか「和食大研究」とか「コンビニ惣菜の栄枯盛衰」とか、本でもサイトでもいいので何かそういう企画をやっているという大義名分がなくては乗り込めない。
今のところ、仕事で頼まれてもいないし、自主企画でさすがにそこまでやる時間も情熱も持ち合わせてないので、今回はここで打ち切りにした。
しかし、僕はある大きな変化に気付いた。
やはり「おふくろの味=肉じゃが」という概念は間違いなく大きく揺らいでいる。
なんといっても.ボルシチやエビチリがお母さん食堂にラインアップされる時代だ。
そういえば僕だっておふくろに作ってもらったのはハンバーグだとかカレーだとかトンカツだもんな。
若い連中にとっては肉じゃがなんて限りなく存在感の薄い小鉢料理の認識しかないのかもしれない。
もはや肉じゃがは「古き良き日本の郷愁を誘うファンタジー料理」としてすら生き残るのが難しい時代に入っているのかも知れない。
平成の終焉に向けて日本の文化は地殻変動を起こしている。
そう感じられたのが、今回の収穫と言えば収穫かなぁ。
これについてはまたの機会に考察を重ねたいと思っている。
お読みの女性の方、ダンナやカレ氏に「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼まれたことがありますか?
僕はおふくろもカミさんも肉じゃがが嫌いなので家で食べたことはほとんどありません。(おふくろの場合は子供の頃、作ったことがあるかもしれないけど思い出せない)
カミさんの場合は自信を持って「一度もない」と言い切れます。
聞いたら「ジャガイモが半分煮崩れて汁や他の具材と混ざっているのが嫌」なのだそうです。
なかなか神経が細やかな女性です。
いずれにしても、自分が嫌いなものだから作るはずがない。
と言って別に文句を言っているわけではありません。
僕もカレーのジャガイモやポテサラやフライドポテト、コロッケその他、ジャガイモ料理は大好きですが「おれは肉じゃがが食べた~い!と叫んだことはありません。
サトイモの煮っ転がしは好きだけど、あの甘い醤油の汁はじゃがいもには合わないと思っています。
思うに肉じゃがは日本が近代化して間もない貧しい時代、そして庶民も月に一度くらいは肉を食べられるようになった時代――明治とか大正に庶民の食卓で発展したおかずだろうと思われます。
一家のお母ちゃんがかまどの前に立ち、家族みんなで食べるには少なすぎる肉をどうやって食べようと思案した挙句、そうだ、あのすき焼きのような(当時は肉を使ったごちそうといえばすき焼きをおいて右に出る料理はなかった)味のものにしよう、安い野菜と合わせて煮るんだ。そうだジャガイモがいい。ジャガイモを主役にすればお腹もいっぱいになるし、それにあまりものの玉ねぎやニンジンを入れて煮込めば・・・はい、出来上がり!
という感じでお母ちゃんが工夫を凝らして生まれた料理が肉じゃがです。
これがデン!と鉢に盛られて食卓の真ん中に置かれる。
ほかほかと立つ湯気と匂いが食欲をそそる。
「いただきまーす1」と10人もいるような大家族が一斉に競いあって食べる。
「こらノブオ!肉ばっか選って食べるじゃない!」と、母ちゃんの優しく暖かい怒声が飛ぶ。
他におかずと言えば漬物くらいしかないけど肉は食えるし、ジャガイモでお腹はいっぱいになるし、今夜の家族は幸せだ。
そんな時代が長く続き、肉じゃがは不動の「おふくろの味」となったわけです。
というわけですが、男性の方はカミさんやカノジョに「肉じゃが作ってちゃぶだい」と頼んだことがありますか?
いまだに肉じゃがは「おふくろの味」の定冠詞を被っていますが、豊かになっちゃったこの時代、この料理をそんなに好きな人は大勢いるのだろうか?
街の中の定食屋に入っても「肉じゃが定食」なんてお目にかかったことないもんなぁ。
そもそももはやメインディッシュとなり得ない。食べるとしても副菜というか小鉢でつまむ程度。
けれども副菜だろうが小鉢だろうが、ばあちゃんもおふくろもカミさんも誰も作らなくなっても、古き貧しき日本の郷愁を感じさせる肉じゃがは不滅なのだと思います。
これから先は明治・大正・昭和のストーリーを背負ったファンタジー料理としてその命脈を保っていくでしょう。
・・・と思っていたけど、香取信吾がコマーシャルやってるファミマの「お母さん食堂」のメニューにはポテトサラダはあっても肉じゃがは入ってないぞ! 危うし肉じゃが。この続きはまた明日。
「スタンド・バイ・ミー」の映画を観た同年代やもう少し若い女の子たちから「あれは男の子にしかわからない世界だよねー。男がうらやましー」といった趣旨のコメントをよく耳にした。
うん、確かにそうかもしれない。
そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて命がけの冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。
そんなのは人生の無駄使いだ。
女の子の時代は短い。彼女らはすぐにオンナになることをあらかじめ知ってるし、(生みの)母親になるのにだってタイムリミットがあることも小さなころから知っている。
いつまでも遊んで飲んだくれてて、60になっても70になっても生物学上の父親になれる男とは事情が違うのだ。
「男っていいな」という彼女らの呟きからはそうした潜在的な女の宿命が感じられた。
と思ったのは30年前のことだけど、それと同時に彼女らはどうも「少年」という、男になる一歩手前の存在に大いなる幻想を抱いているようだとも思った。
特に「スタンド・バイ・ミー」のリーダー格のクリスは、タフでクールで勇敢で優しく友だち思い。抱きしめたくなるような可愛い一面もある。
そして彼は自分を取り巻く過酷な運命との闘いを余儀なくされている。
女性から見れば理想の少年像に近いのではないだろうか。
しかも映画ではそのクリスの役を当時売出し中の美少年俳優リバー・フェニックスが演じていた。幻想はますます肥大する。
ちなみにフェニックスはこの映画からわずか7年後に夭折。生きていればあのルックスと演技力からハリウッドのトップ俳優になっていた可能性も高いだけに残念だ。
ファンタジーや児童文学や少年マンガに出てくる女目フィルターのかかった少年像は僕も好きだ。
ある程度幻想が混じっている方が、キャラクターが生き生きして、のびやかに動ける。一言でいえば魅力的になる。
だからこうした分野は女性作家が大活躍できる。
こうした女性たちにも「スタンド・バイ・ミー」は大きな影響を与えたのではないだろうか。
女に男の世界のことはわからないと思うけど、わからなくていい。男のしょーもない現実など知って得することなんてほとんどないし、もし知ってしまったら必要最低限の部分を残して、あとは目をつぶった方がいい。
さて今回「スタンド・バイ・ミー」を読み返してみて唐突に、30年前とは正反対のことを考えた。
そもそも女の子は野ざらしになった死体を見に行くなんてバカげた目的のために何マイルも歩いて冒険するなんてアホくさいことはネバーしない。
その時は確かにそう思い、ずっとそう思い続けてきたけど、いや待てよ。1960年ではなく、1980年代も通り過ぎた今ならそうとも言えないのではないか。
とんでもなくバカバカしい目的のために、何人かの女の子たちが命がけの冒険をする。
今の時代ならそういう「少女版スタンド・バイ・ミー」も成り立つのではないかと思う。
なんでかという根拠は特にないんだけど、そういう話はあるんだろうか。あったら読んでみたいんだけど。
およそ30年ぶりくらいにスティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」を読んだ。
この4人の12歳の少年の小さな冒険物語はロブ・ライナー監督によって映画化され、80年代に大ヒット。そして今も語り継がれる名作映画になった。これはその原作だ。
定番となっているレビューには「この年齢特有の男の子の世界」「友情」「成長物語」というキーワードが必ずと言っていいほどくっついている。
確かに映画はそうしたニュアンスを強調して作られており、僕の中でも観終わった後の甘い感傷のようなものが、エンディングテーマ「スタンド・バイ・ミー」のメロディとともに残っている。
以前読んだのは20代半ば頃だった。
映画を見て読んだので、映画とほとんど同じという印象を持っていた。
もちろん今回も当初は同じイメージを持っていて、もう一度どんなだったか確かめてみようと思ってページをめくってみたのだ。
そうしたらぜんぜん違っていた。
自分の齢のせいだろうか?
50代の男には、これは12歳の男の子たちの成長物語とも、友情物語とも映らなかった。
成長や友情という言葉が放つ明るいイメージ、爽やかなイメージとはまったくかけ離れているのだ。
実はこの原作の題名は「Stand By Me」ではない。
原題は「The Body」。これは死体のことだ。
自分たちと同じ12歳の男の子が列車に轢かれて死んだという情報を得て、その死体を見に行こうと4人の少年が冒険に出かける。これはそういうストーリーなのだ。
死の誘惑にかられた子供たち。
ちょっと考えれば、明るく爽やかになるはずがない。
小説の底辺にはむしろ暗く陰鬱なトーンが響いている。
その暗さ・陰鬱さの原因が、キングの他の多くの小説と同じく「恐怖」だ。恐怖と言っても霊や悪魔が出てくるわけではない。
それは少年たちが生まれ育ってくる中で体感し、植えつけられた生活の中の恐怖。生きる上での根源的な恐怖。否応なく背負わされた人生に対するリアルな恐怖だ。
彼らはそんな恐怖心を覚えざるを得ない環境で育った。
それを象徴するのが暴力的な父親だ。テディの父親は精神を患い、幼いテディの両耳を焼いてしまう。クリスの父親はしじゅう酔っぱらって子供たちを殴りつけている。
その父親たちをフォローするかのように、不良化した兄たちがこれまた暴力的で少年たちを震え上がらせる存在になる。
そして教師や周囲の大人たちは、あんな家で育った子供らはろくな人間にならないとはなっから決めつけている。
1960年のキャッスルロックというアメリカの片田舎は、そういう生活習慣の世界だったのだ。
12歳ともなればそんな諸々の事象が何を意味し、自分たちの将来にどう響くのか感じ取れてしまう。
ここで描かれる少年たちの友情とは、自分たちを取り巻く大人たちや地域社会から受ける恐怖や不条理から互いの身を守るために必死でしがみつき合う――そうした類の友情だ。
そして何とかその恐怖を乗り越えたとき――それを成長と呼ぶなら成長した時、少年たちはバラバラになってしまう。
友情はある夢の一時だけ空に掛る虹のようなもの。
主人公(語り手である)ゴードン=作者キングの分身の3人の友人たちは皆、ここで描かれた冒険から10年あまりの間にこの世から去っていく。
後味は何とも苦い。20代の頃に感じた、感傷を帯びた甘い味は何処へ行ってしまったのだろう?
だからといってこの作品が嫌いになったわけではない。
むしろその重層的な味の深さに感心すことしきり。30年前は僕は面白おかしいストーリーの上っ面しか読んでいなかったのだ。
今回、読み返してみて本当に良かったと思う。
やはりこれは少年小説のバイブルともいうべき名作なのだ。
わが町・永福町の近隣にには熊野神社・大宮八幡宮。永福稲荷神社と3つ神社があり、毎年9月の週末は3連荘でお祭りです。
息子がチビの頃は近所の子も連れて毎週毎週3つのお祭りを梯子して回ったこともあります。
今週はその中でも最も大規模な大宮八幡宮のお祭りで、人出もすごい。夜は周辺地域の10基のライトアップしたお神輿が合同宮入りしてすごく華やかです。
この地域に住んで早や四半世紀が経とうとしていますが、お祭りの風景は変わりません。
いつも思うのだけど、日本の神様は大変鷹揚な親で、子ども――つまり僕たちがが仏様やキリスト様のところへ遊びに行っちゃってもガミガミ怒鳴ったりしません。
お正月とお祭りの時、「神の子」に戻ってちゃんと神社に来て頭を垂れてくれることを知っているからです。
ひと昔前、そうした宗教に対する日本人の節操のなさは国内外から怪訝に思われたり、非難されたり、おかしいんじゃないのと言われたりすることが多かった気がします。
しかし近年、無宗教化は世界的傾向となっています。
世界に名だたるキリスト教国と思われていたアメリカやイギリスでも今や3割に近い人が自分は「無宗教」と言うそうな。
これが30歳以下だとその割合はぐんと上がり、無宗教化の流れはとどまるところを知りません。
ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは19世紀後半ですが、それから150年かけてニ-チェの言葉が現実化しつつあるのかも知れません。
その詳しい話はまた別の機会にしますが、そんな世界の風潮を見ると、日本人がいちばん宗教との付き合い方が上手なのではないかと僕には思えるのです。
いわば無宗教化時代の先達となるのか、日本人。
というわけで今日は心の広い日本の神様にお参りして感謝の意を表しました。
今年はちょううど仕事に当って、毎年やってた熊野神社のお神輿が担げませんでしたが、また来年は復帰するぞ。
一昨日「人に見せない秘密の文章を毎日書きましょう」と言ったけど、自分自身それができるようになったのは、やっとこの1年余りのこと。それでも調子が悪いと何日か抜けてしまう。それでも僕にとっては何とか切れずに続けているのは大きな進化です。
逆に言うと僕がダメ人間なのは、これをやってこなかったからだとも言えます。
これをもっと若い時からやっていれば、もう少しまともな書き手になっていたかも知れない・・・・と今頃思うのは、もちろん後の祭りです。
なんでできなかったのかと言うと、それはすぐに「こんなことやってて何になるのか?」と思ってしまっていたから。つまりこれはサボるための口実です。
継続的なトレーニングの意味を認められず「何かもっと効率の良いやり方がるはずだ」と考える。
そう考えるのなら自分でそのやり方を開発すべきなのだけど、それもやらず、ただやり過ごしてきたのです。
普段からやってないのに、いざ何か書こうと思ったってろくなものは書けません。
それでもいろいろ書いてきた。仕事もなんとかなってきたのは、偶然というか、たまたまというか、運がよかったのでしょう。
書き手としての自分を育てるのに効率の良いやり方なんてありません。効率を求めれば求めるほどどんどんダメになっていく。
最近は働き方改革ブームで、またもや「効率」が持てはやされています。
まぁ仕事はしかたありません。組織の中で、プロジェクトの中で効率よくスムーズに回る歯車になることを求められているわけですから、給料・ギャラをいただく以上、その求めに応じなくちゃいけません。
でも効率は本物のクリエイティビティを養うには不要です。
農業と同じで、ただひたすら頭の中の田畑を毎日耕すしかありません。それなくして収穫は得られません。
いや、耕して種をまいたとしても、日照りが続いたり大雨が降ったり台風が来たりすればパー。努力が必ず報いられるとは限らないのです。
でもやっぱり努力のないところには収穫はありません。
というわけで人生半分をはるかに超えてしまったけど、最近は100年ライフということなので。後半戦、死ぬまでやるっきゃないです。
人間は毎日、頭の中で膨大な量の物事を感じ、考えています。自分で意識できるもの・認知できるものもあれば、脳の奥底に深く沈んで意識・認知されずに引き出しにしまわれていくものもある。
僕たちが話したり、行動したり、ブログやSNSに書くことはそのほんの一部――氷山の一角でしかありませんん。
特に奥の方にしまわれてしまったものは海底の洞窟の宝物と一緒で、死ぬまで眠ったままになってしまうことが多いようです。
これを引き出すためには訓練が必要です。
と言っても、何か特別なことをするわけじゃありません。
ただひたすら「書くこと」。文字化・見える化することです。
ただしブログやSNSに書いているような作文はだめ。人に見せることを前提として書くと、どうしてもリミッターが働いて本音が出せなくなってしまう。
これは「人に見せない、自分だけの秘密の文章」でないと、あまりやる意味がありません。
さらに言えば、きちんとした文章になってなくたって構わないのです。単語の羅列だっていい。要は自分がその意味・イメージがわかればいいわけですから。
そして重要なのは継続的に――できれば毎日やること。
「人に見せなくていいんだったら簡単」と思うかも知れませんが、実はそうでもありません。
僕も含め、たぶん多くの人は「人に見せる前提」がないと、なかなか文章なんて書けないし、書く気にならないと思います。1日・2日ならともかく、毎日となるといったい何を書けばいいのかわからなくなる。
そこを乗り越えてほじくり出せるようになるといいのです。
僕が手書きでノートにこれを書き始めたのは5年ほど前からですが、何度も挫折してやっと習慣として定着するようになったのは、この1年あまりのことです。
だいたい1日につき、見開き2ページから多い時は4ページ。費やす時間は30分から1時間。時々忙しかったり体調悪かったりで数日抜けることがありますが、何とか保っています。
やる時間帯は朝昼晩夜、いろいろ試してみましたが、やっぱり脳がよけいな情報に侵されていないフレッシュな状態の朝が7いいようです。
僕の場合は、曲がりなりにも物書きを生業にし、創作をやっているので、アイデアが出やすくなるとか、表現を工夫できるとか、直接的にメリットがありますが、そうでない人もやってみると面白いことが起こるかも知れません。
そんなに時間・労力が取れなくても、1日15分、1ページでも。
言い換えればこれは自分の脳の中に溜まる情報のウンコを出すようなもの。脳をすっきりきれいにしてストレスをなくし、自分にとって本当に大切な情報をほじくり出す作業でもあるのです。
大量の情報があふれる世の中で、僕たちの脳は知らず知らずのうちに相当なダメージを受けています。それを軽減する効果も生まれると思います。
雨が降ってすっかり季節が変わった。
そして雨はすっかり忘れていた記憶の引き出しをあげる。
たぶん中学1年の時だったと思うが、「明星」というタレント情報雑誌を購読していて、その中に編集部おすすめの映画のあらすじをマンガにして紹介するというコンテンツが載っていた。
その一つに、「裸身を雨にさらす少女」の映画があった。つまり女の子が裸で雨に打たれるのだ。
それも森の中の草むらのようなところで寝そべって。
マンガの絵柄のせいか、西洋人だからか、顔つきも体もずいぶん大人の女に見えたけど「少女」という言葉が
これだけ書くとずいぶんエロチックな映画のように思えるが、けっしてそうでなく、全体はちょっとアートの匂いがするような青春恋愛映画といった感じ(と、僕の頭の中ではそうなっている)。
この雨と裸のシーンも何か若い女の神秘性みたいなものを表現していたような気がする。
マンガの絵柄のせいか、西洋人だからか、顔つきも体つきもずいぶん大人の女に見えたけど、ナレーション的な文章に「少女」という言葉が入っていたので、たぶん16~7歳くらいの設定だったのだろう。
穢れを洗い流しているとか清めているとかいう感じで、けっして悲壮感はなく、むしろ愉しんでいるようにも見えた。
だが、いったいどういう文脈で、どういう感情の表出で彼女がこうした行為に及んだのかはわからない。
ただ、そこに父親くらいの年齢の男が現れ、その男は悪さをするどころか、彼女に服だかタオルだかを黙ってわたす。見開きでそんな展開思う。
確か主人公は若い男だったので、この少女をめぐってこの年配の男と三角関係になる・・・というストーリーではなかったか。
とするとツルゲーネフの「初恋」みたいな話だったのだろうか。
このシーンと全体のイメージだけは憶えているのだが、今となってはなんて映画か題名も内容もさっぱりわからない。
そもそも実際に映画を見たわけじゃなくて、あらましを描いたマンガを見ただけだし。
1972年か73年くらいに日本で公開されたアメリカ映画かフランス映画だと思うが、もし誰か知っていたら教えて下さい。
それにしても引き出しにはいろんなものが入っている。
40年以上思い出したことなんてなかったけど、憶えていたということは、マンガとはいえ、中1の小僧には相当刺激的だったんだろうなぁ。
この頃は雨もパニック映画さながらすっかり情緒がなくなって危険なものになってしまったけど、夢を育てたり、記憶を開かせてくれるようなやさしい恵みの雨を降らせてほしい。
6月にロンドンに行ったとき、ひとつ大きなことに気づいた。
パンクが歴史から抹消されている。そう感じた。
僕がロンドンで暮らしていた1980年代後半、パンクロックのムーブメントはもちろん、とっくの昔に消え失せていたが、街の中ではまだまだトサカ頭の若者たちが闊歩していた。そう、パンクはファッションとして生き延び、観光の目玉にもなっていた。
王室やビッグベンやウェストミンスター寺院などとともにロンドンの代名詞となっていた。ダイアナ妃のロイヤルウェディングの絵はがきの隣には隣にパンクの兄ちゃん・姉ちゃんたちの絵はがきがあった。
僕自身は経験ないが、観光客と一緒に写真に納まり、金をせびり取っていたという話もある。
僕が働いていた日本食レストランでは、すぐ隣のテーブルにパンクの連中が来たので、日本人のおじさん・おばさんたちが怖いから席を替えてくれと言ってきた。
そう考えると、セックスピストルズらのパンクバンドがリアルタイム活躍していていた時期よりも、有名度としてはあの頃が最高潮だったのかもしれない。
しかしパンクは21世紀に生き残れなかった。
ビートルズやローリングストーンズはもちろん、へヴィメタもプログレもグラムロックもバンドエイドもイギリスが産み落としたポップカルチャーとして、ロンドンの20世紀の歴史の中に燦然と輝いているのだが、パンクはその片鱗も見当たらなかった。当局から存在を抹消されてしまったという感じである。
なぜだ? 反抗的だったり暴力的だったりしたからか? 音楽性が他のジャンルに比べてショボかったからか?
でも僕がちょっと知っていたパンクの兄ちゃん・姉ちゃんたちは気が良くてかわいいやつらだった。
20世紀のパンクは消えうせたけど、近年はそれに代わって19世紀のスチームパンクが人気みたいだ。僕も息子の影響で少々かじっているが、要はSFのジャンルの一つで、産業革命時の蒸気機関のテクノロジーが発達した世界観のもとに綴られた物語だ。
現実の歴史の中では無視されても、パンクのスピリットは人々の想像力の中で生きていく時代になっている。
そしてまた、僕たちは10年・20年単位でなく、200年・300年のスパンで自分の存在を位置づける時代になっているのではないかと思う。
高齢化社会の進展の証なのか?
最近、若者が電車で高齢者に席を譲ろうとしても「結構です」と断られることが増えているようです。そのパーセンテージはなんと60パーセント以上とか。
確かに元気な高齢者が増えたので、単に年寄っぽく見えるだけでは譲りにくくなった気がします。
優先席もなんだかエイジレスの世界になっています。
で本日の話。午後、仕事の打ち合わせで電車に乗った時のこと。
永福町から井の頭急行に乗っていて、次の明大前でちょうど目の前の席にいた女性が降りたので、これ幸いと腰かけました。
僕にとって電車で座って本を読むのはささやかな至福の時間です。
するとその駅から乗り込んできた金髪の若者――20代半ばくらいか、いやもっと若いかも。僕の息子のちょっと上くらい――の様子がどうもおかしい。立ち位置は僕の斜め右くらい。なにやら気分が悪そうでユラユラしています。
それで電車が動き出したら、ものの1分としないうちにいきなりしゃがみこんでしまいました。けど周りの人はあまり気に掛ける人はいません。しかし僕は気になって気になって読書どころではありません。なんか真っ暗な舞台の上で、僕とその金髪の彼だけにスポットが当たっているような映像が思い浮かんでしまい、思わず「おい、だいじょうぶか?具合が悪いのか?」と声をかけました。するとその若者は黙って首を振ってうなずきます。
「じゃあ、ほら坐って」と席を立つと、彼はそのままささっと座席に身を沈め、ぐったりとうなだれたかっこうで坐っていました。
心の中では、なんでそんななのに電車に乗るんだ。明大前で休んでりゃいいじゃないかと思ったのですが、人のことは言えません。
僕も「いや、おれは大丈夫」と言いながらフラフラで自転車に乗っていたところを声かけられ、救急車で運ばれ、手術・入院までしたのですから。
仕事なのか、イベントなのか、女の子に会いに行くのか、その彼もとにかく乗っちまえば何とかなると思ったのでしょう。
結局ずっとそのままだったのですが、終点の渋谷に近づくとやおら持っていたレジ袋を取り出し広げて口元に持って行った。
「やばい、こんなところで戻すのか。それも真昼間に」と心の中で叫んだが、なんとか持ちこたえ、無事渋谷到着。
みんなゾロゾロ降りる中、坐ったままの彼のことが気になりましたが、時間も押していたのでそのまま黙って下車してしまいました。だいじょうぶだったかなぁ・・・。
いずれにしても具合が悪い時は若者も高齢者も同じなので、なんとかしてあげれればと思います。
きょうは硬膜下血腫の再検査で病院へ。
ちょうど1か月前、退院した日は午前中から35℃超えの猛暑日。なにせ1週間冷房の効いた院内で避暑していたので、あまりのシャバの暑さに脳みそが沸騰しそうになりました。それが懐かしくなるくらい涼しくて快適でした。病院は人がわいわいいっぱいいて、変な言い方ですが活気がありました。
で、肝心の検査結果は残念ながらまだ完治に至らず。CT画像を見ると、まだうっすらと血腫が残っている。
というわけで3か月後に再々検査をすることに。3か月分の薬(漢方薬ですが)をどっさりもらって帰ってきました。
しかし日常生活を送るのには特に問題ないので、あんまりストレスがかからないよう、またぼちぼちやっていきます。
9月の声を聞くと同時に来年の足音が聞こえてきます。
イノシシの走る音です。今はまだウリ坊程度ですが。
干支グッズをはじめ、そろそろ手帳やカレンダーが店頭に並ぶ季節がやってきます。
だけど今回はちょっと事情が違う。来年は西暦2019年。和暦では平成31年―ーは4月まで。5月からは新しい元号に切り替わります。
当初、新元号は手帳やカレンダー業界に合わせて9月に発表――という話を聞いた憶えがありますが、発表されそうな雰囲気は全然ありません。
どうも政府が現在の天皇陛下を慮って発表を遅らせているようです。
ということは発表は来年に持ち越しということ?
困る業界はないのだろうか? 祝日とかは?
皇太子様は2月生まれ。現・天皇陛下は阿4月に退位されるので、そうすると来年は天皇誕生日なしということなるのかな?
昭和から平成になった時はどうだったのか、さっぱり憶えてないけど、あの時は昭和天皇が亡くなってから発表されたから業界はもっと大変だったはず。だからどうってことはないのかもしれません。
コンピューター関連のシステムなどは西暦でやっているから大丈夫なのだろうか? 30年前と社会状況が違うのでどうなるのよくわかりません。
それにしても元号の話になるると、よく小渕恵三さんの画像にお目にかかりますが、この人を「ああ、あの平成を発表した人ね」とは認識しても、総理大臣だったことはほとんど誰も覚えてないのでは?
小渕さんは「永遠の平成おじさん」として人々の記憶にとどまった。
さて今度は誰が「新元号おじさん(あるいはおばさん?お兄さんお姉さん?)」になるのでしょう?
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