●迫りくる祝・2020年
2017年も半分過ぎました。
待望の2020年まであと残り2年半です。
この半年があっという間だったように、きっとこの2年半もあっという間に過ぎて、気がついたら2020年になっちゃっているでしょう。
しばらく前から「2020年を境に世の中が大きく変わる」という漠然とした空気が漂っています。
もちろん、語呂と数字の並び具合が最高にキマっているスターイヤーだというのもありますが、特に日本の場合、東京オリンピックが開催されるのでなおさら待望感大盛です。
ごく一部の人は、高度経済成時代――1964年の前・東京オリンピックの時と同様、日本が再び大発展すると、かなり本気で考えています。
その他の大部分の人は、「そんなことあるわけねーだろ、バーカ」と思いながらも、何か劇的な変転――できればよい方向への――を期待しています。
物理的・精神的生活の両面においても、経済・産業・政治といったマクロな部分についても、この数年で変化の要因がいっぱい出ているので、そう考えたくなるのも無理はありません。
●ウルトラQ最高傑作「2020年の挑戦」
ところで僕が子供の頃のテレビの特撮ドラマ「ウルトラQ」(ウルトラシリーズの第一弾。ウルトラマンの前の番組)で「2020年の挑戦」というエピソードがありました。
まずタイトルがカッコいい。
「ぺギラが来た」だの「ガラモンの逆襲」だの、わかりやすく怪獣の名前を盛り込んだものでなく、何やら含みを持った詩的とも言えるタイトル。
内容は、2020年からやってきた未来人=ケムール人が、老化した身体を若返らせるために、現代(この当時=1965年。なんと前・東京オリンピックの翌年!)にやってきて、この当時の人々を特殊なやり方で2020年の未来へ連れ去ってしまう、要するに誘拐していくという、SF、怪奇、ミステリー、サスペンスの要素がぎっしり詰まった濃厚なストーリーの上に、画面をネガ反転させて見せる恐怖感を駆り立てる演出に、僕はトラウマになるほど震え上がりました。
さらにこの事件を、ある作家が予言書のごとく「2020年の挑戦」というSF小説に描いていたという、「ノストラダムスの大予言」みたいな裏話がついているというメタ構造。
さらにさらに、これまたトラウマになってしまった衝撃的なエンディング。
子ども心に「すげぇえええ」と感じ、「ウルトラQ」のエピソード中、最高傑作だと思っています。
●ケムール人は僕たちのメタファーか?
制作していた人たちが当時、どれくらいの年齢で、どんな時間感覚を持っていたのかは分からないけど、もしかしたら、まだ自分も生きているかも知れない「55年後」をネタにこんな話を作れるとは・・・。
高度経済成長時代の日本人にとっては、21世紀、そして2020年というのは、本当にまだまだ遠い未来の話だったのだなぁと思わざるを得ません。
僕はここで考えてしまう。
もしかしたら、2020年に生き、若い身体を求めて過去にタイムスリップまでして人々の若さを欲しがる、このケムール人とは、僕たち現代の中高年世代のメタファー(暗喩)なのではないか、と。
ケムール人とは、老いることを怖れる人間の悲しい性の具象化なのか、おぞましい根性なのか、はたまたお笑いネタなのか、「2020年の挑戦」とは何に対して、何のための挑戦なのか――。
ただ変転を期待しているだけでは芸がないので、自分なりの2020年を作っていくためにも
残り2年半、マラソンしながら挑戦していきたいと思います。
興味のある人は「ウルトラQ」を見て、いっしょに挑戦してみてください。
●夏はローリング・ストーンズ
気温が上がってくるとローリングストーンズが聞きたくなる。
夏はストーンズだ、ロックンロールだ!
とはいえ、じつはそんなに熱心なストーンズファンというわけでもなく、曲もそんなに知りません。
ざっと数え挙げても10曲くらいしか出てこない。
ビートルズやレッド・ツェッペリンほど、音楽性が幅広いわけでなく、プログレ系ほど深い陰影があるわけでもない。
僕にとってストーンズはあまりディープにはまりこむことなく、ほどほどのテンションを与えてくれる。
だから仕事のBGMとして最適なのです。
だけど、「アンダー・マイ・サム」と「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」はいつ聴いてもサイコーにカッコいいなぁ。
1990年の待望の初来日公演の時も、友だちと大騒ぎしながら東京ドームへ行きました。
もちろん、ミックやキースが目立つのだけど、僕にはドラムのチャーリー・ワッツが最も印象的でした。
メンバーみんな、演奏中、リズムを外すまいとドラムの周りに集まってくる。チャーリーの刻むハートビートがこのバンドの音楽を支えている、と思いました。
演出もド派手で大ロックンロール大会という感じでしたが、個人的には最近、YouTubeでお目にかかる60~70年代の少々ダークなムードがただようライブの方がそそられるものがあるなぁ。
●ブライアン・ジョーンズと芹沢鴨
ストーンズ関連のストーリーはあまり読んだことがないのだけど、この間、ネットで「ストーンズの成功の理由」について書いた文章があって、何気に読んでいたら、その理由の一つにブライアン・ジョーンズをクビにしたことを挙げていました。
ブライアン・ジョーンズは初期の中心メンバーで、もともとストーンズはミック・ジャガーやキース・リチャーズのバンドでなく、ジョーンズのバンドだった。
60年代当時、ストーンズはビートルズと張り合っていたのだけど、リーダーのジョーンズがドラッグとアルコールに溺れて、このままではバンドが崩壊する危機に瀕し、ジャガーをはじめとする他のメンバーが結託し、ジョーンズにクビを言い渡しに行ったというのです。その数カ月のちにジョーンズは薬物中毒で他界しました。
この話を読んでなんだか新選組に似ているなぁと思ってしまった。
当初、新選組のボスは芹沢鴨という武士だったのですが、素行が悪く、このままでは世間に認められないと察知した近藤勇と土方歳三は、他の隊士と共謀してボスである芹沢を粛正するのです。
どちらも反逆的な若者集団だけど、世間に自分たちの存在を認めさせ、上に這い上がるためめには、あまりに反社会的な面は矯正するバランス感覚と、自分たちを引っ張ってきたリーダーと言えど容赦しない非情さも必要なのだということですね。
●ミック・ジャガーと会った話
ロンドンの「ひろこレストラン(日本食)」にと勤めていた時、一度だけミック・ジャガーが来店したことがあります。
えらく若い恋人を連れてきたなぁと思ったら、娘さんでした。
あの当時(1986~7年頃)、まだ高校生ぐらいの齢だったと思うけど、すごく大人っぽくて美人だった。
そんな娘さんと一緒で気分が良かったせいもあり、終始にこやか・穏やかで、リラックスした様子でした。確かメインは焼き魚を食べていきました。支払いはアメックスのカードで。
ミックはじめ、メンバー全員、美味しく楽しくヘルシーな日本食をたくさん食べて、健康を維持して、死ぬまでロックンロールしてほしいと思います。
●世界最強の棋士
先日は将棋の藤井四段の連勝新記録達成に日本中が湧きかえりました。
天才少年のホットニュースに水を差すつもりはないけれど、彼を確実に負かせる、世界最強の棋士がいます。
人工知能です。
ちょうど藤井四段の新記録がかかった1日前にNスぺで「人工知能」の特集が放送されました。
そこでは「電王戦」と銘打たれた勝負(もちろん公式戦ではありません)で、佐藤名人が人工知能に完敗。
もはやチェスも囲碁も将棋も、人間の頭脳では人工知能に太刀打ちできなくなっているようです。
単に強いというのではなく、人工知能が繰り出す手はあまりに「創造的」で、相手の意表をついている。
人間の将棋の世界が銀河系の一部とすれば、人工知能のそれは全宇宙的。ほとんど神の領域だ
――というのは対戦した佐藤名人、そしてコメンテーターの羽生さんのコメント。
それだけでなく、プログラミングをした開発者も、自分の「子供」であるはずの人工知能のすさまじい学習能力、急激な成長ぶりに驚いている様子でした。
●知識・ノウハウ・創造に関する「巨人」
どうしてそんなことが起こり得るのか?
答えは簡単です。
人工知能は、100人、1000人のプロ棋士が束になって、一生かかっても体験し得ない、天文学的な数の対局をすべて体験し、記憶し、応用し、そこから新しい手を生み出すことができるからです。
つまり、これまで人間が積み上げてきた膨大なデータを活用するからこそできる所業で、けっしてゼロから生み出しているわけではありません。
その過程は僕たち人間が勉強したり、技能をスキルアップさせたりするのと同じです。
先達が伝えてきた資料を読み込んだり、技能を真似て学んだり、練習したり・・・をくり返す中で、どんどんレベルを上げて、さらに上れば自分オリジナルのやり方なり、技なりを編み出していく。
職業訓練だって、スポーツや芸術館関係だって、大雑把に言えば、そうやって身に着け、プロとして選手として成長していくわけですよね?
ただ、人工知能の場合は、そうしたデータを取り込むスピードとキャパシティが人間の脳の能力をはるかに超えている。
ある分野の発祥からこれまでの歴史を丸ごと、ごく短時間で自分のものにできる。
要するに知識・ノウハウ・創造に関する「巨人」なのです。
それに対して人間は小人以下。
自虐的に言えば、虫か細菌のレベルです。
到底かなうはずがありません。
●社会への活用はますますスピードアップ
番組内でもタクシー会社や人材派遣会社など、すでに社会で人工知能が活用されている事例が紹介されていましたが、現在の状況はほんの序の口の先っぽ。この流れは今後、一気に早まると思います。
認めたくない人は多いと思いますが、経済・産業の分野ではこの「巨人」が、人間の業務をコントロールする日はすぐにやって来るでしょう。
「ロボット大統領が生まれる日が来ます」
そういうSFの世界から抜け出してきたような研究者も登場しました。
映画やマンガじゃあるまいし・・・と言いたくなるところですが、自分の利権を主軸に国を動かそうとする各国の政治家を見ていると、彼の言う通り、有史以来の人間の政治の歴史をすべて読み込んだ、人間の事情や性分を、人間よりよく知ったロボットが政治を行ったほうがいいのでは、とも思えてきます。
皮肉だけど、人工知能・ロボットが統治することで、真の民主主義政治が実現するのかもしれない。
●人間が人間である意味は?
そうした経済・産業・政治など、社会のマクロなところに対して、人間一人一人の生活や精神活動などミクロなところには、どうなのか?
こちらも家事をやってくれたり、子供や家族のように心を癒してくれたり・・・といった領域で、人工知能・ロボットの活躍が期待されています。
心のひだまでケアしてくれるロボットって、意外と早く作られそうな気がするなぁ。
そうなっちゃうと、人間はどうすればいいのだろうか?
少なくとも、役に立つ・立たないとか、優秀・優秀でないとか、そうした、現代社会の中心にある基準は相当薄れてきてしまうのではないでしょうか。
●ぼちぼち準備が必要なようです
「心の準備はできていますか?」
番組はそんなナレーションで締めくくられていましたが、本当に少しずつでも心の準備をしていかないと、人工知能がコントロールし、ロボットが活躍する世の中になった時、人間としてのアイデンティティはたやすく崩壊してしまうと思います。
ところで、Nスぺのこのシリーズ、これまでいつも「綾波レイ」の声で響いてきていたのだけど、今回はなぜか林原めぐみさん本人の声として響いてきました。
なぜ? 不思議だ。
奇妙なもので、今晩は(今回の睡眠では)夢を見そうだな、と予感すると、ちゃんと夢を見る体質になりました。
で、そういうときの夢は目が覚めたあとも割とはっきり覚えています。
●一本目:歌ってくれるという女の子の話
今朝の夢は二本立てで、1本目は女性歌手が登場。
歌手といってもプロなのかどうかわからない。
なにやら昔の友達なのか、知り合いなのか、付き合っていたことのあるガールフレンドなのか、判然としないというか、その複数の女性の融合体という感じで、僕に歌を歌ってくれようとします。
僕はその気持ちがうれしくて、何を歌ってもらおうか迷う。
でも決められなくて、というか、決めちゃったら一曲歌って彼女は行ってしまうから、つまらないなと思って、いつまでもどうしようかこうしようか迷いながら、いつまでも一緒にいるのを楽しんでいる、という話でした。
●誰かの赤ちゃんを預かった話
2本目はどこかのホテルのようなところの、パーティーの席のような場所にいる。
そこである友達から
「知り合いからこの子を預かったのだけど、用があるのでちょっとだけだけこの子を預かってほしい」といわれて赤ん坊を手渡される。
僕は気安く「ああ、いいよ」と言って受け取る。
ところが、その席からしばらく離れ、別のフロアに行って戻ってくると、その友達が誰だったか忘れてしまっているのです。
それで懸命にその友達を探すのですが、見つからない。
最初のうちはのんびり構えているが、だんだん焦ってくる。
幸か不幸か、赤ん坊はとてもおとなしくてむずかって泣き出したりしないので、周囲の人たちは注目しない。
でも僕は内心、誘拐犯と誤解されるのではないかと気が気でない。
それで友達を探すのはやめて、友達にその子を預けたという本当の親を探そうとする。
その本当の親はもっと上のフロアにいるのではないかという直感があって、エレベーターで昇ってみて、チン!と扉が開くと、なぜかそのフロアはひとつの街ーー新宿の歌舞伎町か、渋谷のセンター街みたいなところになっていて、人がうじゃうじゃいる。
こんなところでは探せないと思って、しかたないからホテルのフロントというか相談係みたいなところで事情を話そうと思ってまた下がる。
で、そこでふと赤ん坊を手にしていないことに気がつき、慌てて探す羽目に。
でも赤ん坊はすぐに見つかり、ああよかったと思って抱き上げると、その子もにっこりする。
その笑顔を見た僕は、これももう家に連れ帰って自分で育てるしかないなと思う。
でも一方で、そんなことをしたら犯罪だぞと葛藤する。
というところで目が覚めました。
なんだかどちらも夢らしく、迷ったり探したりばかりでしたが、後味はそんなに悪くありませでした。
夢の話なので、特にオチもまとめもなく、これでおしまい。すっとんころりこ。
一流レストランの料理人だった男が、ホスピスのシェフになり、入居者ひとり一人のために食事を作るという物語。
ホスピスはご存知の通り、病気などで医師からいわば「死刑宣告」をされた人、生きるのを諦め、人生の最期を受け入れつつある人たちの「終の棲家」になる場所。棲み処と言ってもそこにいるのはほんの半月程度の間です。
この物語はその入居者、および付き添うパートナーや子供たち数組と、彼らの話を聞き、食事を提供するシェフとの交流やそれぞれの人生のドラマ、そして食事をめぐる心の葛藤を描いています。
もともとドイツのテレビのドキュメンタリー番組だったようで、著者はその番組の制作者の一人でもあるジャーナリスト。
あまりドラマ性を強調せず、感動を押し付けない素直な語り口と乾いた文体で淡々と文章を綴っています。
いちばん興味をひかれるのは、やはりシェフの男。
年齢は明確にされていませんが、大学を中退してあちこちの一流店で料理人の修業を積み、このホスピスに来て11年、というのだから、若くても30代半ば。父親以外、家族について語ることなく、まだ独身のようです。
多少脚色がされているのか「人生の旅人」といったニュアンスのキャラクターになっています。
このホスピスがあるのが閑静な郊外ではなく、世界に名だたる夜の歓楽街レイパーバーン(ハンブルグ)の程近くというところも、なんだかちょっとフィクションめいているのだけど、それもまた面白い。
人生にとって大事なものは何か?を考えさせられる一冊です。
恋の季節なのか、最近、近所でやたらと「猫が迷子です」という貼り紙を見かけます。
飼い猫が家に帰ってこなくなってしまって、飼い主さんが捜しているのです。
どこかの猫とラブラブになって、駆け落ちしちゃったということなら、まぁ、達者で暮らせよ、と諦めもつくでしょうが、どこぞの人間に連れ去られてしまったのでは・・・と考え出すと、そりゃいてもたってもいられません。
村上春樹の「海辺のカフカ」に「ナカタさん」という猫探しの名人が出てくるのですが、ああいう人がうちの近所にもいればいいのにな、と思います。
ナカタさんは子供の頃、秀才だったのですが、戦時中の疎開先で遭遇した事件がもとで知的障害になり、その代り、猫の言葉がわかる能力を得たという設定で、この物語の中でも数奇な運命を辿ります。
このナカタさんが頼まれて探していた三毛猫の「ゴマちゃん」を見つけ出し、無事、飼い主のコイズミさんのお宅に届けたら、コイズミさん一家が狂喜した・・・という場面が、僕は大好きです。
何度読んでもすごくいいんだよね。
その一方、いろいろなドラマを経てゴマちゃんを救い出した(そうなんです。おぞましい世界からの救出劇があるのです)のに、お礼がたったの3000円って、どうなの? と思ってしまいます。里芋の煮っ転がしがおまけについてきましたが。
救出劇のことはコイズミさんも知らなかったのでしゃーないけど、現実的に考えても、行方不明の猫を探し出してくるという、そんじょそこらの凡人にはない、稀少な職能です。
しかも家族に大いなる幸福をもたらす仕事をしたのだから、もっと報酬弾めよ。 結婚式のご祝儀だって30,000円くらい出すだろう、と言いたくなります。
でもまぁ、ナカタさんは職業で猫探しをやっているのではないし、金銭欲もまったくない人なので、これでいいのかも。
貼り紙出している人は、見つけたらいくら報酬を出すのだろう?
ちょっと気にはなりますが。
ネコ写真家の岩合さんも猫と話ができるのだろうな。
僕はと言えば、長年、道ばたで猫と遭遇すると、会話をしようと試みるのですが、さっぱり見向きもされません。
ごくたま~~に相手にしてくれる奇特な猫もいますが。
ナカタさんとまではいきませんが、少しはネコが心を開いてくれる人間になるのが、今後の目標の一つです!・・・かな。
Mind Mapの開発者トニー・ブザン氏が来日した時にお世話役をやった友人が、以後、普及・伝道活動をしているというので、あるセミナーに呼ばれて習いました。
かれこれ10年ちょっと前の話です。
マインドマップを使っている人は多いと思いますが、僕はイマイチ使いこなせず、ある時、集中的にやるけど継続せず、やったりやらなかったりの繰り返しです。
いろんな本が出ていて、
「あんまり考えないで直感でパッパッと書いていけばいい。
時間をかけてはダメ」
という意見が多いのですが、僕の場合、どうしても時間が掛かってしまって、余裕があるときじゃないとできないのです。
で、まぁ、ちょっと気が向いたのでまたやってみたのですが、やっぱりこれは面白い。没頭します。
ヘンな言い方だけど、思考の整理と拡散が同時にできる。
今回は創作のために、ここ数カ月いろいろメモ書きしたものを整理しようと始めたのですが、やっていると予想していなかった新しいアイデアが出てくる。
また、べつべつに考えていたAの要素とBの要素がくっついたり、以前、畑違いの仕事で書いたことがこっちに入ってこいられるじゃん、となって、仕事というよりもだんだんゲーム感覚に、さらに色鉛筆を使うので、お絵描き感覚になってくる。
楽しくなるので脳が活性化するのです。
ただ、どんどんそうした新しく出てきたものを採り入れていくと、グチャグチャになって広がって紙からはみ出してくるので、何枚か書き直しをしなくてはなりません。
それでようやく整理がついて、とりあえずの完成品――地図ができるというわけ。
だけど完成させることに満足感を得過ぎると、それで終わってしまう。
マインドマップは単なるツールなので、これを使って発展させていかないと何にもならない。
これは今あるテーマの大俯瞰図ななおで、まず数日寝かせて、各柱別のマップをそれぞれ作っていく必要があるな、と思っています。
どんなツールもそうですが、本当に活用できるものにするには、時間や労を惜しまず、もっとどんどん使い込んで、自分仕様にしていかないと見い出せませんね。
●子供の僕の中にも大人がいた
中年を超え、息子がほぼ成人したころから、自分の子供時代のことをよく思い越すようになりました。
齢を取って懐古趣味に陥っているのか?
それもあるけど、そこで止まっていたら、ただのノスタルじいさんだ。
そこから進んで掘り下げて考えると、おとなになった自分の中に子供がいるのを感じるのです。
でもこれは普通のこと。
大人は誰しも子供だった経験があるのだから。
もう少し思いをめぐらすと、子供だった頃の自分の中にも大人、もっと言えば老人の自分もいたのだなぁと気付きます。
人間の魂には時間の流れは関係なくて、最初から一生分が丸ごと詰まっている。
●潜在意識と物語
ただ当然ながら、子供や若者の頃には、成長後のことは潜在意識の中に入っていて、普段は見ることが出来ません。
それが何らかのきっかけで、深海の暗闇を潜水艦のサーチライトが照らし出すように、潜在意識の奥にあるものが垣間見える瞬間がある。
そのきっかけとなるものはいろいろとあるけど、最もわかりやすいのが言葉や絵で表現されている文学や絵本です。
特に昔から伝承されている神話とか民話の中には
「こんなの、子供に聞かせて(読ませて)いいのか?」
と思うような、エログロなものが結構あります。
主人公が残酷に敵を殺したり、不条理に殺されたり、食べられちゃったり。
また、現代の児童文学でも、単なるハッピーエンドで終わらず、そうしたエッセンスをうまく採り入れているものも多々あります。
だから子供向けの本でも優れた作品は、やっぱりどこかで大人っぽい。
大人が読んでも面白い。
僕たちを取り巻く現実はハッピーエンドばかりじゃありません。
かと言って、現実を見ろ!と、生々しいドキュメンタリーやノンフィクションをわざわざ見せつければ、却って子供は目を塞いでしまうか、心にひどい傷を負ったり、大人や社会に対する大きな不信感を抱きます。
そんなときに「物語」が活かされる。
そうした物語に触れて、子供は成長後のことを悟り、人生の厳しさ・不条理さに対する心の準備をしていくのかも知れない、と思うのです。
●大人と子供のコラボで生きる
中年を過ぎると、遠くからひたひたと「終わり」の足音が聞こえるようになります。
そうなると、今度は「過ぎ去った子供」がブーメランのように戻ってきて、
「さあ、いっしょにこれからの展開を考えながら、どうまとめるか決めていこうか」と囁きます。
葬儀業界では「エンディング」がすでに一般用語になっているけど、これも言ってみれば、ロングディスタンスのエンディングプラン?
大人の僕はお金のことや毎日の暮らしのせこいことばかり考えているけど、子供の僕はそうした現実べったりのこととは違う、夢とか愛とか地球とか未来とか、何かもっと生を輝かせることを考えてくれるのです。
ネッシーも、UFOも、心霊も、超能力も、そしてノストラダムスの予言した世界の終りも歴史になった。
今さらですが、そう感じさせる一冊が、この「ぼくらの昭和オカルト大百科」です。
今日は仕事の骨休め日と決めて、寝っ転がって、おせんべいを食べながら読んでいましたが、けっこう笑えておもしろかったです。
もちろん、僕もこれらの世界におおいにハマっていた一人です。
この著者の初見健一さんと言う人は1967年生まれで、僕より7つ年下なので、僕が中学・高校生で体験したことを、ほぼ小学生で体験しています。
なので、その若さ分、はまり具合は僕よりさらにガッチリしてたのでしょう。
まさにこの頃はテレビや雑誌が「見世物小屋」になり、「○○プロデューサー」と名乗る興行師・香具師たちが、昭和の大衆という名の子供たち相手に、
「ほらほら、今度はこんなの連れてきたよ。怖い?でも見たいでしょ」
と、手を変え品を変え、ネタを抱いたりひっこめたりしながらボロ儲けしていたのだと思います。
僕もこの著者と同じく、このペテンっぽさというか、オドロオドロしさというか、見世物感覚と言うか――が大好きでした。、
いま、僕が気になるのは、ネッシーにしてもUFOにしても、もとネタとなった目撃者・撮影者・証言者が、どうしてねつ造をしたり、妄想虚言をしたのかということ。
世間を騒がせ、面白がりたかったと言えばそれまでだけど、わざわざ手間暇かけてプランニングし、実行に移すプロセスには、いろいろ心の葛藤みたいなものがあったと思います。
その証拠にこの世を去る前に、みんな「あれはウソだった」と告白している。
神に犯した罪を懺悔するかのように。
これら騒ぎを引き起こす行為の奥にはもっと人間の持っている根源的な欲求があるような気がします。
みんな、均一に光が当たる、のっぺりとしたフラットな世界に耐えられないのかもしれない。
もっとこの世界は陰影に富んだ、奥行きと言うか、科学では計り知れない不思議なもの、こことは違う「裏側」「向こう側」があるのだと信じたいのかもしれない。
UFOはその陰の部分の闇夜の空から飛んでくるものであり、ネッシーは暗黒の湖底から首をもたげるものでした。
しかし、ノストラダムスの予言は外れた21世紀には、大衆のための見世物小屋は撤去され、これらのネタはインターネットを通して見る「覗き込屋」になった。
覗き小屋の中でUFOやネッシーは永遠に生き続けるのか?
そして、ノストラダムスに代わる新しい「世界の終わり」の予言者は現れるのか?
もしかしたら今度は人工知能がその役目を果たすかも知れません。
●でめ金がない
友だちとメールでやりとりしていて「でめ金がない」というセリフを送ってきたので、「デメキン? 金魚すくいに行きたいの?」と返しました。
気が利かないやつなので、まともに「『でもカネがない』って書いたんだよ」と返してきましたが。
そんなわけで、そのメールを見たら、頭の中に出目金が現れ、泳ぎ出しました。
僕には出目金の思い出がある。
ひらひら尾びれをゆらめかして金魚鉢の中を行ったり来たりしていた黒い出目金。
子供の頃、出目金に対して最初に抱いた疑問は、なんで他の金魚は赤いのに出目金は黒いんだろう? でした。
なぜか、なんで目が飛び出しているんだろう? という疑問はあとから出てきた。
●金魚のフリークス
それで金魚の図鑑を調べたら、出目金だけじゃなく、ヘンな金魚がいっぱいいる。
リュウキンなんかはあちこちのヒレがやたら長くてゆらゆらしていて、それなりにきれいだと思ったけど、背びれがなくてブヨッとした体形のランチュウとか、頭にイボだかコブみたいなものをいっぱいくっつけているオランダシシガシラなんてのは、どうみても気持ち悪い。
出目金も含め、どうやらこのへんのやつらは自然発生したんじゃなくて、人間の手で作られたらしい。
なんでこんなヘンなサカナを作ったんだろう? と、ふくらんだ疑問に対して自分で見つけた答は、みんな赤いフツーの金魚(和金)ばかりじゃ、金魚すくいをやっても面白くないから――ということで、お祭りの金魚すくい屋が、もっとお客を呼ぶために、いろんな変わった金魚を創り出したのだ――というものでした。
●金魚すくいの出目金
もちろん、そんな気概のある金魚すくい屋はいないし、ランチュウやオランダシシガシラは希少価値のある、高価な金魚なので、金魚すくいなんかに使えない。
でまぁ、赤い和金とのコントラスト――いわば賑やかしのために、黒い出目金が「変わり者代表」として、金魚すくいの舞台で活躍することになったわけです。
概して子供は目のデカい生き物が好き。
だから出目金も人気がありました。
僕も金魚すくいに行くと、たいてい出目金を狙っていました。
からだが大きめで、なんとなく動きがほかの連中よりのろく、からだも大きめなので、カンタンに救える気がするのですが、そう甘くはありません。
それでもがんばって何匹かすくって、家に持って帰って飼うんだけど、出目金はなぜかみんな早死にしちゃうんだよね。
目玉が飛び出しているので、ケガをしやすいと本に書いてあったけど。
●「でめきんちゃん」のこと
ついでに――とう言っては失礼だけど、もう一つ思い出したのが「でめきん」というあだ名の女の子がいたこと。小学校の同級生でした。
目が大きく、ちょっと出っ張っていて、まぶたが脹れぼたかった。
それで、でめきん。
僕はべつに特別な感情を持っていたわけじゃないけど、彼女とは同じクラスの同じ班になったり、そろばん塾でもいっしょだったりしました。
どっちかというと真面目でおとなしい、目立たないタイプで、べつだん愛嬌のあるキャラではありません。
それなのに顔の特徴の一部をあげつらった、そんなあだ名をつけられて、さぞや不愉快・不本意だったと思います。
なんと言っても女の子だなんだからね。
僕もいま思うと、申し訳ないことしてたな、と反省しきり。
最近はもう少しまともなのかも知れませんが、その時分の小学生の男のガキどもは、まったくそういうところにはデリカシーのかけらもありませんでした。
でも、彼女は確か卒業文集の自己紹介の「あだ名」を書く欄で、ちゃんと「でめきん」と書いていた。
不本意・不愉快ではあったけど、受け入れていたということなのか?
それとも、あだ名がないよりはあったほうがいいと考えていたのかなぁ?
いずれにしても小学生とは言え、もう高学年だったので、容姿のことは気にしていたと思うけど、その後どうしたのだろう?
まだ子供だったから当然、大きく変わっているでしょう。
あの頃のバカ男子どもの目玉が飛び出すほどの美人になった、という可能性だってあり得ます。
どんな人生を辿ったのかはわからないけど、いずれにしても幸せになってくれているといいなぁ。
・・・と、少しでも罪悪感を感じないですませたいので、そう願います。
●でめきんの顛末
メールを送ってきた、給料日前で“でめ金がない”、しょーもない誤字メールを送ってきた友だちとは会って、昼飯をごちそうしました。
せっかくなので魚メインの定食屋へ。
しらす丼とまぐろメンチカツ定食。
カマスの塩焼きとさくらエビ入りコロッケ定食。
つごう1,820円なり。うまかった。
再生可能なデータがあれば、20世紀の伝説はロボティクスでよみがえり、後世に伝承される。たとえば、The Beatles。
●ビートルズ未来作戦
ここのところ、ネット上でやたらビートルズ関係の広告を目にするなぁと思ったら、今年はポップミュージックの大革命と言われ、世界初のコンセプトアルバムである「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」のリリース50周年ということ。
ジョン・レノンとジョージ・ハリスンはとっくの昔にこの世を去っているし、ポール・マッカートニーもリンゴ・スターも、今さらビートルズをネタにビジネスをしようなんて考えないでしょう。
「ビートルズ」は今や一種のブランドであり、レジェンドと化しています。
そのビジネスはそもそも誰が動かしているのか知らないけど、どう今後の戦略を立てているのか、気になるところです。
メンバーの使っていた楽器が新たに発見されたとか、ジョンがポールに宛てた手紙がオークションでン千万の値をつけたなんて話もいまだに聞きますが、そうした話に興味を示す熱心なファンは、すべからくリアルタイムで聴いていた人たちで、だいぶ高齢化してきています。
そろそろこのあたりで決定的な手を打って若い世代を取り込み、ビートルズの功績を未来に伝えていきたい・・・と考えるのは自然なこと。
●ビートルズランド構想
そこでビートルズくらい世界中で認知度の高いバンドなら、この際、ディズニーランドみたな体験型テーマパークを作ったらどうなんだ?と僕は考えるのです。
ロンドンのアビーロードツアーとか、リバプールのペニーレーンやストロベリーフィールズ巡りは、昔からの定番だけど、バーチャルでそれができる。
サージェントペパーズとか、マジカルミステリーツアーとか、イエローサブマリンとか、中期のビートルズの音楽は、サイケデリック、ファンタジックな世界観を持っているので、アミューズメントに展開しやすい。
体験としても面白いでしょう。
それこそディズニーレベルで資産をドカンと投資し、シナリオや演出についての優れた人材を集めて制作すれば、結構楽しい場所にできるのではないか。
ロンドンかリバプールか、イギリスに本拠を置いて、日本にも「東京ビートルズランド」みたいなのをつくる。
そこは単なるエンターテインメント施設ではなく、世界へ向けて愛と平和のメッセージを送る情報発信基地のような場所であったりする。
そして、キャバーンクラブをイメージしたライブハウスがあり、4人が演奏します。
コピーバンドじゃありません。本物です。
●ビートルズはロボットとして復活する
本物のデータを採り込んだロボット――アンドロイド・ビートルズのライブパフォーマンス。
山ほどあるレコーディングの際の音源、ステージ映像、膨大なインタビューなども含め、メンバーのデータをぜんぶロボットに記憶させ、学習させる。
それをもとにしたパフォーマンスです。
日本のロボット技術は、すでに演劇をやるロボットや、落語の名人芸を再現する、見た目も人間と変わらず、表情も作れるアンドロイドを開発しています。
その技術をもってすれば、メンバーそっくりのロボット(アンドロイド)を創り出すのは、そう難しいとは思えません。
若い世代にアピールするためには、音や映像だけでは迫力が足りない。
「永久保存版」のロボットなら圧倒的に強く訴えられるでしょう。
それに学習能力があるから、新しい曲を生み出すことも可能です。
ナンセンス、ファンタジーが得意なジョン・レノンのアインドロイドなら、気の利いたゲームやアミューズメントの一つや二つ、プランニングできるかもしれない。
もちろん今のところ、夢みたいな話ですが、ビートルズという、あの時代ならではの、世界の若者の精神が作った「文化」を後世に引き継いでいく文化事業(であるとともにビッグビジネス)は、きっと必要とされる日が来ると思います。
それもそう遠い未来じゃなく。
「人を食った話」にはいろいろコメントを頂きました。
やっぱり食人に関しては、単に「飢餓状態における野生の本能の発動」というわけでなく、脳のロックを解除するために宗教的・道徳的操作が必要になるようです。
「この(食人という)行為を行うのは、神の御心なのだ。
神が食べて生き延びよと導かれている」
といったセリフを作って、自分で自分に納得させるのでしょう。
そうでなくては鍵は開けられないのだと思います。
そして食べる前には「屠る」――殺した上に切り捌く、という行為をしなくてはなりません。
あんまり想像したくはありませんが・・・。
しかし、この「屠る」=屠畜ということに関心を向けて、世界中を取材して回り、本を書いた人がいます。
内澤旬子さんというライターで、「世界屠畜紀行」というのがその本で、2006年に「解放出版社」という大阪の出版社から出された本です。
著者本人曰く「普段食べている肉をどうやって捌いているのか、単純に知りたかった」というのが、この企画の動機だったとのこと。
そうした好奇心を持つ人は結構いると思いますが、実行に移す人はなかなかいない。
尊敬に値します。
ちなみに 彼女は「殺す」という言葉にまつわるネガティブなイメージが嫌だということで、「屠殺」ではなく「屠畜」を使っています。
韓国、バリ島、エジプト、モンゴル、ヨーロッパ、そして沖縄、東京と回ってその屠畜の現場を精力的に取材しています。
さすがに写真を載せるわけにはいかないので、イラストレーターでもある彼女は自分のスケッチ(妹尾河童画伯の細密画を想起させる画風)を載せています。
ただ、これは「人間社会の内奥をえぐる迫真のルポルタージュ!」といった類のものではなく、目の前で起こっている事実をつぶさに観察し、それに対する自分の感情と考察を軽いタッチで、ちょっと面白おかしく描いており、「面白ノンフィクション」とでもいう感じの内容になっています。
でもやっぱり描かれる場面は凄惨なことに変わりなく、実際に豚や牛や羊を屠畜する人たちとうまくコミュニケーションし、取材を成功させているのはすごいなぁと思います。
また、命を奪う行為なので、どうしてもその国その社会の文化・道徳・宗教、社会のありよう、さらに職業に対する差別問題など、いろいろ複雑なものがそこから炙り出されてくるのです。
いま僕たちは、幸福なことに、そのへんのスーパーやお肉屋さんで買って、あるいはレストランに行って、毎日、ごく日常的に、何も考えずに動物の肉を食べている。
でもそこに来るには、自分でやるわけではないけど、「屠る」という行為が必ずあるわけで、そこにはすべからく文化・道徳・宗教・社会の問題が絡み合っている。
平和な日常によけいなイメージを紛れ込ませて、めしが食えなくなるといけないので、考えたくない人は考えなくていいと思いますが、「食」に興味のあって平気そうな方は、ぜひ一読してみてください。
人間は餓死しそうなほど飢えていればなんでも食べるのだろうか?
生まれて一度も口にしたことのないものでも、口に入れられるのだろうか?
敬虔なイスラム教徒は不浄な豚の肉でも食べられるのだろうか?
ヒンドゥー教徒は神聖な牛の肉でも食べられるのだろうか?
他の動物は、飢えれば共食いも辞さない。
でも人間はどうなのか?
僕もあなたも人の肉は食べられるのだろうか?
すべての人間の脳には「飢える恐怖」がプリインストールされている。
食に関する禁忌は、そうではなく生後、育つ過程で、その環境の生活・文化・宗教などによってインストールされる。
脳に厳重なロックが掛けられる。
その鍵は生命に危険がおよぶ極限状況に遭遇すると解除される。
でも本当にそうなのだろうか?
俗にいう「アンデスの聖餐」では、アンデス山脈の雪山で遭難した人々が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びた。
しかし、何人かは最後まで頑なにその「贈り物」を拒み、餓死した。
どっちがいい・悪いの問題ではない。
でもどっちか選ばなくてはならなくなったら、僕はどっちなのだろうか?と考えるのです。
もちろん生きたい。
ただ、生き延びた人のその後の人生はどうだったのか?
食事はちゃんとできたのだろうか?
生きたことを後悔しなかったのか?
罪の意識に苛まれるることはなかったのか?
いろんな疑問が渦巻きます。
一度、脳のロックを解除してしまったらどうなるのだろう?
僕は四六時中、自分で自分が怖くてたまらなくなるのではないか・・・と、想像してしまいます。
人間の場合、動物とちがって、食べることは単なる栄養補給・肉体を維持するためだけの行為ではありません。
そこにはその人が生まれてから体験してきた文化やアイデンティティの問題が、深く、複雑に絡み合っています。
脳のロックは、その文化やアイデンティティに基づいて掛けられたもの。
いわば自分がその文化圏の人間であること、自分が自分であることの証明でもあるのです。
世界各地で人食い人種やカニバリズムの話が広められ、実際にそういう記録も残っているようなので、いざとなれば容易に解除されそうだけど、実際はどうなのか?
たとえ死に瀕したとしても、僕はおそらくそう簡単には外せないと思うのです。
もちろん人それぞれで判断は違うだろうけど、人間はギリギリのところまで人間であり続けようと考えるのではないか。
他の動物に堕して生きるより、人間として死ぬほうを選ぶのではないか。
だから、禁忌に対するタブーは侵さない――僕はそう思う。
希望する、といった方がいいかも知れません。
あなたはどうですか?
餓死の危機に陥ったら、普段はけっして口にしないもののうち、何と何なら食べられると思いますか?
梅雨入りして初めての雨。
最近のゲリラ豪雨はたまりませんが、今日のような雨は割と好きです。
なんか、ピチピチチャプチャプランランランと歌い出したくなるような。
というわけで雨降りを見ていたら、ふわっと目の前に雨女が現れました。
赤い傘をさして、なんとなくデビューしたころの壇蜜に似ています。
彼女は僕にちょっと色っぽい、アンニュイな声で囁きかけます。
「雨女のご用はありません?」
彼女はご用聞きにやってきたのだ。
イベントのある日は雨男・雨女、晴れ男・晴れ女というのがよく話題になります。
たいていの場合は単なる印象で、しかも自分でそう言っているんだけど、最近は物心ついたときから――とまでは言わないまでも、たとえば幼稚園とか小学校の頃から、自分の能力と将来を見越して、ちゃんと自らデータを取っているような人も、ごくたまにいる。
「わたしは正真正銘の晴れ女だ。見よ!」
とか言ってスマホを見せれば、そこには過去の遠足やら運動会やら旅行やら冠婚葬祭時の晴天率がちゃんとデータ化されており、その時々の写真やら参加者のコメントまで載っている。
彼ら・彼女らは生まれながらの才能とスキルアップによって、お天気を操作できるプロの晴れ男・晴れ女なのである。
晴れ男・晴れ女の需要は高い。
野外イベントをぜひ成功させたい時、いまや主催者の合言葉は決まっている。
「晴れ男・晴れ女を予約したか?」
「いえ、あいにく当日はスケジュールがあいてなくて・・・」
「予算がなくて、ギャラが出せないんですが」
「降水確率ゼロですよ。もったいない」
「ばかもーん!」
晴れ男・晴れ女を手配できなければ、担当者のクビはスパッと吹っ飛んでしまう。
たんまりギャラをふっかけられても、惜しんでいる場合ではない。
たとえ雨の確率0%でも念には念を入れて保険をかけておく必要があるのだ。
でも、雨男・雨女の場合は?
これはあまりお呼びがかからないかも知れない。
でも、彼女と相合傘でデートしたいとか、
雨で外に出られず一日家の中でデートすることになって、一線を超えるような状況に持っていきたいとか・・。
晴れ男・晴れ女のビッグビジネスに比べて、こちらはなんとも地味で儲からなそうだが、それでも求められることはあるのだ。
晴れているばかりでは困ることだってある。
晴ればっかりでは生きててつまらないこともある。
それに意外と雨というのは思い出をつくることが多い。
僕が息子をベビーカーに乗せて初めて散歩に出た日、途中で雨に降られたら、カミさんが傘を持ってきてくれたことを憶えている。
あれは息子にとって初めて体験した雨だったと思う。もちろん本人は憶えてないけど。
ちょうど今日のような6月の雨降りだった。
そんな話を雨女にしたら、
「ぜひまたご用命を」とにっこりと、ちょっと少し寂しげに笑って消えました。
ゲリラ豪雨のような雨は嫌だけど、今日のような梅雨のしとしと雨は、ちょっと愛とお色気と人生のスパイスがあるなと感じます。
●日本昔話と哲学
かのマンガの聖地・トキワ荘跡に程近く、マンガ地蔵がある金剛院。
お寺にいるお地蔵さんは雨が降ろうが雪が降ろうが心配ないが、山の峠道にいるお地蔵さんは雪が降ったら雪まみれです。
それを不憫に思ったおじいさんが、自分が持っていた売り物の笠をかぶせてあげる。
一つ足りなかったので、自分の被っていた笠を取ってかぶせてあげる。
すると、お地蔵さんたちは感謝して、お米やお餅、金銀財宝を持って恩返しにやってくる。
というのが、日本人ならおそらく誰もが知っている「笠地蔵」のお話。
今回の「蓮華堂」でのイベントは、この「笠地蔵」を題材に、登場人物はなぜこうした行動を取ったのか、この物語に潜む人生に対する考え方は何か、といったことを解き明かしていく哲学講座でした。
●住職によるパネルシアターと講師・大竹氏の投げかけ
哲学講座と言っても難解なイメージはまったくなく、親しみやすいもの。
まず野々部住職がみずから「笠地蔵」のパネルシアターを上演。
続いて、フランス現代思想を研究している作家の大竹稽氏が講師として登場しました。
このおじいさんはなんで売り物の笠を、さらには自分の笠までお地蔵さんに差し出したのか?
その話を聞いたおばあさんは、なぜおじいさんを赦し、共感することふができたのか?
お地蔵さんはなぜバレないよう、真夜中にお礼を運んできたのか?
そんな質問を参加者に投げかけます。
●笠地蔵における人生哲学とは?
今まで当たり前に聞いていた「笠地蔵」のお話ですが、よく考えてみればおかしなことばかり。
後からガッポリ報酬がもらえるのだとわかっていれば、寒いことぐらい我慢して、笠でも蓑でも長靴でも、なんなら着物やパンツまでもお地蔵さんにあげちゃっても割に合うけど、この時点ではそんなことはとても考えられない。
この投資を回収できる確率は、宝くじの一等賞をあてるよりさらに低いのです。
しかも宝くじとちがって、ヘタをすると命に関わる大きなリスクを伴うことになります。
お話の中には書かれていないが、このじいさん、齢も齢だし、笠でも蓑をなくしてしまったら、途中、雪まみれになって行き倒れになってしまったかも知れない。
なんとか家まで辿り着いたものの、ろくに火も炊けない貧乏なボロ家なので、風邪をひき、高熱を出して、生死のはざまを漂ったかもしれません。
片やばあさんも、セールスに出たはずのじいさんが、売り物の笠は置いてくるわ、その上、雪まみれになって風邪をひいて死にかけるわ、看病までやらされるわ、そのあと働けなくなって、ますます貧乏になるわで、ふんだりけったり。
「この甲斐性なしのボケ、カス、オタンコナス」と詰りたくなるのが本音のはず。
もう愛想が尽きて、できればこんなアホとは離婚したいと思っても不思議ではありません。
それなのに「それはいいことをしたね」と、笑って赦してしまう。
いい人ぶっているわけでもなく(こんなところでいい人ぶっても何の得もないし)、純心清廉少女がそのまま齢を取ってしまったかのようなキラキラぶりです。
いやぁ、本当になんでなんでしょうね?
――というやりとりを、およそ1時間半にわたって繰り広げました。
●和魂洋才の苦悩?
大竹氏はフランスをはじめとする西洋思想の専門家ですが、西欧ではこうした日本の昔話はなかなか理解されず、もちろん醍醐味を味わうこともできないそうです。
そうした日本と西欧の、人生や社会の捉え方を比較をしながら考えていくと、双方の違いがクリアに見えてきます。
それと同時に、「笠地蔵」などの一種の妄想にも似た人生の美徳・価値観と、勝ち負けをはっきりさせる西欧流の合理的な考え方との間でブレまくってしまうのが、現代の日本人の悩みの元凶なのかなぁと考えさせられました。
●寺という空間
大竹氏は日常から離れた、落ち着いた空間である寺院内で、こうした講座を行うことで、参加者がより自らを見つめ直せるのではないかともくろんでいるのだそうです。
その狙い通り、金剛院と協力した今回の企画は、その狙い通り、より自由に言葉を交わせる講座になったと満足そうでした。
道徳と死の問題に挑む大竹氏の哲学講座。
そして金剛院におけるユニークな催し。
どちらも今後ますます増えそうです。
かのマンガの聖地・トキワ荘跡に程近く、マンガ地蔵・マンガご朱印で話題の金剛院。
これまでネット情報だけで紹介していたので、一度足を運ばねば、ということで先週土曜(3日)、イベントの取材で行ってきました。
ちょっと遅れてUP。
懐かしの西武池袋線・椎名町駅の改札を出ると窓に山門のイラスト。
そして、駅を降りれば、目の前に実物がドドンと登場。
僕が西武線住人だった(20代の頃、江古田に長らく住んでいた)時代の記憶を辿っていくと、このあたりはめし屋とか飲み屋とかのお店がゴチャゴチャっと軒を並べていて、その奥になんかお寺みたいなのがあったなぁ・・・という、影の薄い印象でした。
住職の話によると、その昭和的状態は、じつは僕がこの地域を離れて以降、20年余りも続いていたのだそうです。
かねてから計画されていた道路の拡張・駅周辺の区画整理が実行されたのはわずか3年ほど前のこと。
その時、金剛院も大幅にリニューアルし、現在の状態になったのだということです。
ただし目の前にいきなり現れるのは、お寺のご本堂ではなく、めっぽうお洒落なカフェテラスです。
お寺の境内のCafeというので、なんとなく線香臭いイメージを持っていたのですが、全然そんなことはなく、なんだか原宿とか青山あたりの裏通りにあるお店のようです。
僕が行った時はまだランチタイムだったので、お客さんもいっぱい。
入ってみたかったが、時間がない。
今回は取材で来たので、目的地はこのカフェの2階。
エレベーターで上がると、そこは多目的のイベントスペース「蓮華堂」です。
市区町村の〇〇会館、△△地域センターといった施設の集会場といった感じ。
10~20人くらいが集まるのにちょうどいい広さ。
でも詰めれば50人くらいはは入れるかも。
宗教色もほとんど感じさせない、清潔で親しみやすい空間です。
金剛院は地域のソーシャルスペースをめざして、いろいろな団体を受け入れ、コミュニティを育んでおり、その活動・情報発信は質・量とも目を見張るものがあります。
お寺のコンセプトは明瞭ですが、仕切り役の野々部住職は、それをことさら主張するわけでもなく、カフェとかバーのマスターみたいな感じで、鷹揚に構えてマネージメントしているようです。
いわばその情報発信基地である「蓮華堂」で行われた、この日のイベントは「金剛院で希哲する――昔話から読み解く日本のことわり」で、おなじみの日本昔話「笠地蔵」を題材に、登場人物はなぜこうした行動を取ったのか、この物語に潜む人生に対する考え方は何か、を解き明かしていく哲学講座でした。
その内容については、また明日。
6月9日はロックの日。
かどうかは知らないけど、ロックについて考えてみました。
ロックについて考えるなんで、あまりに漠然としているので、もう少し焦点を絞ろうと思ったら、聞えて来たのが、清志郎の歌声です。
♪子供だましのモンキービジ~ネ~ス
自分がやっているロックのことをそう彼は歌っていました。
「ドカドカうるさいロックンロールバンド」という歌。
街中のガキどもにチケットがばらまかれ、バカでかいトラックに機材を積み込んで、ドカドカうるさいロックンロールバンドがやってくるぜ~ぃ!って曲だけど、忌野清志郎がヴォーカルをやっていたRCサクセションの曲の中で最高の一曲です。
もちろん僕的に、ということですが。
思うにこの曲、ローリングストーンズの「It's only Rock'n roll(イッツ・オンリー・ロックンロール)=たかがロックンロール」に触発されたと思われます。
あの時代、やたらロックミュージシャンがカリスマ的に祭り上げられるのを、独特の皮肉とユーモアを込めて「ロックバンドのやっていることなんて、子供だましのインチキ金もうけじゃん」って批判しちゃっているところが、なんとも痛快でカッコいいのです。
ミック・ジャガーもジョン・レノンも、きっとそういう思いを持って歌っていたと思うな。
もともと支配者への反抗の音楽だからね。
けれども世界中にロックが広まり、大成功して人気が高まり、大人もビジネスとして認めちゃうと、今度は自分たちの方が偉くなっちゃって神様・王様みたいに扱われてしまう。
だから時々王様を降りて、道化をやって自己批判しないとアイデンティティが崩壊して、自分が何者なのかわからなくなっちゃうのだと思う。
そういうことを知ってて、ロックミュージシャンであり続けるために、清志郎はこの歌を作り、歌う必要があったのだと思います。
本当に笑えて愉快痛快な歌なんだけど、最後の1フレーズですべてが昇華する。
♪悲しいことなんてぶっとばそうぜ ベイビー
ってやられると、カタルシスで思わず涙がどっとあふれ出します。
ここに清志郎の熱いスピリット、ロックへの愛、聞く人へのメッセージ、
全部がほとばしっている。
ドカドカうるさいロックンロールバンドは最高だ。
そしてやっぱり何度聴いても泣ける。
そういえば、清志郎が亡くなって5月でもう8年が過ぎた。
改めて合掌。
仕事の関係で、ソフトバンクのロボット「ペッパーくん」の写真を何枚か見ました。
ビジネスシーンでも活用され始めたペッパーくん。
チェコの劇作家カレル・チャペックが舞台劇「R・U・R」で初めてロボットを登場させてから、ロボットという概念は急速に世界に広まった。
それから100年が過ぎ、いよいよ本格的に、そして日常的に人工知能・ロボットが活躍する時代が来たようです。
この100年、ロボットのような人間が増えたと言われます。
自分の頭で考えず、誰かの命令に従い、言われたままにひたすら働く人間。
あるいは冷酷で計算高く、人情のない人間。
だけど、ロボットのような人間が増えたのは当たり前です。
それ以前の時代はロボットという概念がなかったのだから「ロボットのような人間」などいるはずがない。
じゃ、それ以前の人間はすごく人間らしかったのか?
みんな自分の頭で考え、自分の判断で行動していたのか?
みんな人情に厚く、温かい心を持っていたのか?
みんな満ち足りてハッピーだったのか?
これからロボットが社会進出します。
僕はなぜか昔から「老人とロボット」という取り合わせに興味があったのですが、高齢者施設におけるロボットの必要性・活用度はかなり高いようです。
お年寄りはロボットなんて怖いし、嫌がるかと思いきや、どうもそんなことはなく、むしろ子供とよりも相性がいいなんて声も聞かれます。
ロボットのように働いてきた人間、ロボットのように生きてきた人間が年老い、施設に入り、人間のようなロボットに世話してもらう。
そして失っていた「人間らしさ」を取り戻す。
けっしてアイロニーでもブラックユーモアでもなく、これからあちこちでそんな物語が生まれてくるかも知れません。
でも、そこでまた疑問が湧き起る。
「人間らしさ」っていったい何?
「人間らしい」って、どういうこと?
それを人間自身に考えさせるために、ロボットは人間の群れの中に入ってくるのかもしれない。
6月と言えばカエルです。
いや、断然カタツムリだ!と言う人もいるかも知れない。
紫陽花の葉っぱの上をもそもそやっているカタツムリもきらいではないけど、なんといってもサイレントです。
だけど、カエルはトーキーだ。
ケロケロ、ゲロゲロ、美しいとまでは言わないまでも、ユーモラスに鳴いてくれます。
カエルの歌は雨を呼ぶ歌。雨がしとしと降ると、田んぼが潤い、稲が育ち盛りの子供のようにすくすく伸びる。
これが正しい日本の梅雨の季節なのです。
最近は昨日みたいなゲリラ豪雨が多くて、そんな情緒もどこかへ吹っ飛んでしまっているけど。
だから日本人はけっこうカエルが好きです。
西洋では化け物や悪魔扱いされることが多いけど、日本ではベビーフェイスで、健気ないいやつらということになっています。
ガマガエルは悪役俳優だけど、人間や農業に危害を及ぼすわけではないし、心底嫌われているわけではない。
彼らはお百姓さんたちにとって、田んぼや小川や池で遊ぶ、お百姓さんのかわいいペットだったのです。
西洋人の耳には秋の虫の声はノイズにしか聞こえないと言うけれど、カエルの声もそうなのでしょうか?
ただのうるさいゲロゲロ声なのだろうか?
従来の日本人には心地よい音楽に聞こえていたはず。
だから「カエルの歌」なんて輪唱曲もでき、小学校唱歌になったのだけど、まだ愛されているのだろうか?
調べてみたら、なんとあの曲、もともとはドイツ民謡でした。
ドイツではどんな時に歌われていたのかわからないけど、日本の作詞家はきっと里山でカエルの歌がどんどん広がり、いつまでも響いているような、そして、それが来る秋には黄金色の稲穂が実り、美味しいお米がどっさり収穫されるというところまでイメージして、輪唱の歌にしたのでしょう。
今年は水害が起こらない程度にやさしく雨が降って、たくさんお米ができてほしい。
カエルはそれを祈願する歌い手なのだ。ケロケロ。
望んだとおりに生き、望んだとおりに死にたいのだけど、それがすごく難しい。
はるか昔からほとんどの人間はそうだったのだけど、現代の先進国で暮らす人間がひどく思い悩み、そうした生き方・死に方を求めて悪あがきするのは、なまじ物質的に豊かになり、自由を手に入れているような幻想に囚われて育つからかもしれない。
ということをよく考えていますが、そんな僕のような人間にとっては、素晴らしく面白い映画でした。
そうでもない人には、ただのヘンテコな家族の巻き起こす大騒動、という物語でしょう。
もちろん、それでも面白いと思えればいいけど。
例によって息子が面白いというので、だいぶ遅れて観てきました。
以下は、これまた例によってネタバレ。
●「生きる力」を身に着ける最強の子育て
アメリカの森の中で暮らす、現代文明を拒否するかのような生活を送るサバイバルファミリー。
父親は「生きる」ということに真剣で、18歳から8歳まで6人の子供たちとともに、森の中を駆けてナイフを使って動物を狩り、獲物を屠り、その肉で食事をする。
また、岩登りなどにも挑戦し、過酷な自然環境の中での適応能力をつける。
そうして鍛えられた子供たちの身体能力はアスリート並み。
文字通り「生きる力」を養う教育・生活だ。
体力のみならず、夜は火を囲んで本を読み、あらゆる学問に通じ理解し、学校なんか行かなくても子供たちの知力はみんな超一流。
これは一種の理想的父親像であり、最強の子育て・教育の在り方だと思います。
称賛されこそすれ、非難されるものではないはずなのですが、そうは問屋が卸さないのが現代社会のオキテです。
●現実と理想の間で引き裂かれた母の死
ここに唯一欠けているもの――それは母親の存在です。
母親はほとんどこの物語の中に登場しないのだけど、その存在が物語を動かす大きなテーマ。
なんと、父子と離れて都会の病院に入院していた彼女は、精神を病んで自殺してしまうのです。
物語の前半で、母(妻)が精神を病んだことが、消費文明をボイコットし、森の中で生きる・子供を育てることを選ぶ、大きなきっかけになったことが示唆されます。
この両親は、自分たちを含む現代人の精神が不健康になるのは、資本主義社会、物質文明に支配された生活環境が原因なのだと考えたのです。
ところがその考え方は違っていた。
結局、子供たちの母――父にとっての妻は、現実の文明社会と、彼女と夫自身が理想とした自然の暮らしとの間で引き裂かれてしまった。
そうした重苦しいテーマをはらんで、物語は軽快なテンポの、コミカルなロードムービーへ展開。
一家は、母の葬式に出るべく、森を出て都会へ向かって旅します。
その旅の中で、理想の父に最強の教育を受け、真の「生きる力」を身に着けたはずの子供たちが、現実のアメリカ社会の中では、ひどく脆く、奇異な存在であることが露呈されてしまいます。
ひとりひとりの個性を尊ぶというアメリカでも、やはりこれだけ極端な個性は忌避されてしまう現実。
日本の場合だったら、言わずもがなでしょう。
この子供たちが皆、かわいくて素敵です。
長男役は若い頃のジョニー・ディップに、次男役はレオナルド・ディカプリオに似ている。なんとなく。
女の子たちも、名前は出てこないけど、みんな誰か先輩女優に似ている気がします。
●これがホントの家族葬?
最も感動的だったのは、終盤の母親の「葬送」です。
父と子供たちは埋葬(キリスト教の伝統で土葬)された母親を掘り起こし、遺体を森の中へ運んで自分たちで音楽を演奏しながら火葬します。
そして残った遺灰を空港のトイレに流してしまうのです。
こう書くとギョッとするかも知れないけど、この一連のシークエンスは、とても愛のこもった、心温まる、なおかつ神聖な場面です。
これが母が遺書に遺した「自分の望む死」だったのです。
最近、日本でも家族葬や散骨に人気が集まっていますが、これぞ真の家族葬であり、散骨。
僕もこういう終わり方がいいなぁ。
現代人らしく、最後の最後は水洗トイレでジャーッと流れていきたい。
でも、実際にはこんなことは社会で許されないのです。
日本ではトイレに遺灰を流すのは明らかに違法行為、たぶんアメリカでも同じだと思います。
●改めて子供の未来のこと
長男(実は彼はアメリカ中の超一流大学にすべて合格している)はその空港から新しい環境に向けて旅立っていき、残った父やきょうだいたちは、なんとか現実と自分たちが培ってきたライフスタイルとの折り合いをつけた、新しい生活を送り始めます。
今の若い連中、そしてこれから生まれ、育つ子供たちは、どんなライフスタイルを理想と考え、どう行動するのか?
大人が示すライフプラン、ライフデザインは、はたして彼ら・彼女らにどれくらい有効なのか、改めてとても気になりました。
監督さんはこの作品が長編2本目とかで、ちょっと青臭さも目立つけど、そこがまたいい。
テーマは重く、とても考えさせるけど、寓意にあふれ、ユーモアたっぷりなところがいい。
ミニシアターでの公開だけど、僕の中では大ヒット作品です。
もっと大勢の人に見てほしいけどね。
ザザザザと水面が波立ち、10メートルにも届こうかという長い首が宙に弧を描いたかと思うと、周囲の山々に咆哮が響きわたる。
それは太古の遺伝子が、いま生きている人間たちの魂を震わせる瞬間だった。
スコットランドのネス湖をはじめ、世界中の多くの国の湖で、人々がそんなシーンを夢想してきました。
そうした夢想は20世紀で終わったのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。
絶対いないと思うけど、もしかしたらやっぱりいるかな、いたらいいな・・・という人たちが、まだまだいっぱいいるようです。
ネットでそうした情報に遭遇すると、何やら「ネッシー教」のような宗教なのではないかと勘繰るぐらいです。
しかし、その地域にとってはやむにやまれぬ事情もあります。
いわゆる町おこし・村おこしに湖の恐竜が一役買っていたことがあるからです。
地域経済を活性化させる貴重な観光資源なのです。
そんなわけでまだ絶滅させるわけにはいかないと、21世紀の若者たちによって、新たな古代生物復活プロジェクトが進んでいるとか、いないとか。
人々の脳内で再び湖の恐竜が実在する日が訪れるのか?
昨日、ブログの整理をしていて「ネッシーの実在と絶滅について」という記事を読んだら、これ、なかなか面白いなと思って、ドラマ化してみようと考えました。
いろいろ並行して進めているので、また忘れた頃に進捗状況を報告しようと思います。
台本ライター・福嶋誠一郎のホームページです。アクセスありがとうございます。
お仕事のご相談・ご依頼は「お問い合わせ」からお願いいたします。